民衆の敵愾心を引き起こす領土問題

松本 徹三

植民地争奪の時代が終わった現在では、世界中の国際紛争の最大の原因は「国境問題」「領土問題」です。A国の領土内に隣国B国と民族的、宗教的に近い人達が多数居住していると、必ずと言っていいほど紛争の種になるでしょう。「歴史的な領有の変遷」もそこに関係してきます。


ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争はその際たるものですが、アジアでは、シベリアの中ロ国境地帯に多数居住する中国人が将来の火種になる可能性があります。また、カンボジアとタイ及びベトナムとの間にも、常に若干の緊張があります。(ベトナム人もタイ人も元はといえば中国系の民族で、経済感覚に優れているのに対し、南方のジャワ島から来て一時期強大なクメール帝国を築いた民族の末裔であるカンボジア人は、近年はベトナム人とタイ人に押され気味です。)

ブータンは、古くからの素朴な文化を守り、国民の「幸福度」を価値観の中枢に据える等、日本人の間には人気のある国ですが、「民族浄化」政策に服さなかったネパール系の人達12万人(全国民の20%弱)は、追われる様に国を脱出、もう13年以上も「難民」としての生活を余儀なくされています。ネパールとは国境を接しておらず、国境を接するインドは大人の対応をしている為、国際紛争には至っていませんが、この難民問題には解決の目途が全く見えていません。

陸続きの国境線を持たない日本は、幸いにしてこの種の問題は持っていません。しかし、海洋国ならではの「異なった種類の領土問題」を抱えています。

問題は三地域にあり、一つは「北方4島」、一つは「竹島(独島)」、一つは「尖閣諸島(魚釣島)」です。全てに漁業権の問題が絡みますが、尖閣には「海底石油資源」が絡んでいるので、特に問題が深刻です。日本人のほぼ全員が、「これらの島が歴史的に日本の領土である事は明らか」と考えており、間違って「いや相手国の言い分にも一理ある」などと言ったら、袋叩きにあるのは必定ですが、困った事に、ロシア、韓国、中国の人達は、日本人の様には考えていないのです。

有り余る領土を持っているロシアの大統領が北方4島を訪れる等という事は、普通なら考えられないことですが、これが「国民の人気を得る為に必要」と判断されているというのですから、頭を抱えたくなります。韓国に至っては、日頃は日本と日本人に親近感と敬意を抱いており、また、何事につけ筋の通らない事は一切言わない私の親しい友人(初老の韓国の知識人)でさえもが、こと独島(竹島)の事になると、人が変わったように過激な発言をします。

「尖閣諸島問題」は、田中角栄首相の訪中によって日中の国交が回復した時点から、既に両国間の最も大きな問題として意識されていました。この時点では、「この問題については、当面は議論を凍結し、数十年後の世代の人達に任せよう」という事で仕切られたのですが、海底油田開発がいよいよ現実味を帯びてきた現時点では、何時までも「問題の先送り」という訳には行かなくなりました。現在の中国はあらゆる種類の資源確保に貪欲なので、日本側から呼びかけている「尖閣諸島近海での海底油田の共同開発案」にも乗ってきません。

北方4島と竹島の場合は、ロシアと韓国がそれぞれ実質的にこれらの島を「実効支配」していますが、尖閣諸島の場合はこの反対で、日本が「実効支配」しています。従って、北方4島の周辺で操業する日本の漁船はしばしばロシアの警備艇に拿捕され、尖閣列島周辺で操業する中国や台湾の漁船は日本の警備艇に拿捕されるのです。紛争の対象になっている島嶼周辺でのこういう事態に対しては、国際法も国際司法裁判所のような機関も概ね無力です。

韓国では「独島を要塞化せよ」という議論が常にありますし、日本でも、今回の問題を契機に、尖閣諸島について同様のことを言う人達がいます。こういう発言は、「断固たる決意を示す」という言葉以上に勇ましいので、しばしばその国の多くの人達の共感を呼びますが、間違いなく対立を不必要に先鋭化させますから、絶対にやってはならない事であると、少なくとも私は思っています。

しかし、「それでも相手がやったらどうするのか」というのがいつも難しい問題です。どの国の国民であれ、「やられっ放し」では収まらないのです。少なくとも、「実効支配」している側としては、武装した警備艇による巡視を強化し、隙を見せないことが必要でしょう。

尖閣問題については、先の日中国交回復時の扱いを踏襲して、「領有問題については、将来の両国民の叡智に任せるものとし、50年間は凍結する。周辺の海底資源は、全て50-50で共同開発する」という解決策を、早急に進めるべきと考えますが、問題は両国の国民感情です。

日韓の草の根レベルの国民感情は、明らかに好転しているように思えます。近年は経済的にも韓国が自信を深めてきている為、対日コンプレックスは払拭されており、その一方では、韓流ドラマの成功などで、庶民レベルでの交流と親近感が深まってきているからです。しかし、日中間では、残念ながら、むしろ問題は深刻化している様に思えます。

近年、中国の力があまりに巨大になってきているので、日本人の多くが警戒心を募らせつつあるのは、いわば自然な流れです。そういう状況下で、全体主義体制の中国政府側に、「理不尽」或いは「傲岸」と受け取られる発言や行動があると、日本人の「中国嫌い」が煽られる事になりかねません。(残念ながら、それは既に起こりつつあります。)

中国にとっても、日本が経済的に重要なパートナーである事は間違いないのですが、依存度は日本ほど強くありませんから、日本は、むしろ「御しやすい相手」と見られているかもしれません。一部の人達が言うように「中華思想で日本を見下している」というような事はないと思いますが、「日本にはバーゲニングパワーがあまりない」事は見透かされているかもしれません。

もっと気になるのは、中国政府には、国内をまとめる為に、庶民レベルの「日本に対する敵愾心」を煽る傾向があることです。天安門事件の後で、江沢民主席が「対日解放戦争」の頃の共産党の活躍に国民の目を向けさせる運動を大々的に進め、教育現場でもそれを徹底したので、多くの国民の頭の中には、「小日本」とか「東洋鬼子」とかいう蔑称で代表される日本観が、根強く刷り込まれている筈です。

(しかし、それを言うなら、日本でも、右翼的な考えを持った人達の中には、未だに過去を引きずって「日本精神」を過大に賛美し、その裏返しとしての「韓中蔑視」を捨てきれない人達がたくさん居るのですから、ある程度はお互い様なのかもしれません。そして、お互いに、相手国のちょっとした発言や行動には、過敏に反応し、すぐに先鋭化する土壌があります。)

一国の政府ともなれば、経済運営と安全保障について、国民に対して責任を持っているのですから、迂闊に他国と事を構えるわけには行かず、常に最大限の抑止力が働きます。しかし、一般民衆は、単純に、且つすぐに、「あいつらは怪しからん。やっつけろ!」という気持になります。常に「どこかで鬱憤を晴らしたい」という気持があるからでしょうが、それを煽る人達がいれば、火は一層燃え盛ります。

他国への敵愾心は、しばしば愛国心と混同されます。それだけに、大勢に逆らって穏健的なことを言うのは憚られるのです。「そうだ」と思う人達は声高に唱和する一方、「違うのではないか」と思う人達は、敢えて反論せず、沈黙します。日本が太平洋戦争に突き進んだ事は、今では誰もが無謀だったと考えており、「それを推し進めた軍部は怪しからん」と考えている人達も多いでしょうが、これを煽ったのは、実は軍部の指導者ではなく、一般民衆とジャーナリストでした。

さて、今回の尖閣諸島での事件ですが、問題の中国漁船が当たりを仕掛けてきたのは、「義憤に駆られた船長の自発的な意図」によるものか、「政府」が密かにやらせたのか、或いは、「何らかの思惑を持ったグループ」が、政府が迷惑することを知りながら、「自らの権力闘争に利用する為に」船長をけしかけたのか、真相は藪の中です。

中国政府が大使を何度も呼び出すなど、本件に異例の執着を見せたのには、先の小鳩政権とは明らかに違う菅政権(前原外相)の覚悟の程を確かめたかった(出来れば揺さぶりをかけたかった)事があるのは、先ず間違いないでしょう。それに加えて、自国の次期指導者の決定時期を目前に控えての、何らかの内部事情があった(少なくとも、自国民の手前、日本に対して弱腰とは見られたくなかった)というのも、恐らくは事実でしょう。

さて、それでは、それに続く市民や学生などによる反日デモですが、過去に起こったことからの類推で、これも官製デモだと断じる人達がいますが、本当にそうなのでしょうか? 私はそのようには思いません。(もしそうなら、その後、あのように本気で押さえ込む努力はしなかったでしょう。)あのデモは、やはり、ネットでの煽りに乗った一般市民や学生達の、半ば自発的な行為だったと、私は思っています。

ネットへの煽動的な書き込みも、勿論官製ではなく、何らかの理由で反日的な行動を起こしたかった人達による自発的なものでしょう。(もしそうでないなら、政府の機関が次々に煽動的な書き込みを削除していったという事はなかったでしょう。)そして、そのきっかけは、「日本のネット上での『中国大使館を焼き討ちにしろ』等という『過激な書き込み』にある」という風評も、あながち嘘ではないかもしれません。(勿論、「『権力闘争』にこれが利用された」という可能性は、否定しませんが…。)

最近では、「Angel Girlsという『日本で人気のあるセクシーなアイドルグループ』が『魚釣島は中国の領土』とアッピールして、4時間で60万のアクセスが殺到した」という話もあります。こんなグループは日本では殆ど知る人もいないのですから、デマゴーグもいいところですが、一般の中国人は「日本の人気アイドルグループでさえそう言っているのだから、やっぱり魚釣島は中国の領土なんだ」と思い込んでしまうでしょう。兎に角、ネットの世界は基本的に「何でもあり」の世界なので、手の打ち様がありません。

私も、「何故日本側はビデオを公開しないのか」と苛立った一人で、もし政府が公式にビデオを公開するのが問題なら、「『遺憾な流出』という形でネットに流すのも選択肢の一つだったのではないか」と考えた程でしたが、「ネットで流す」といった「高等作戦(姑息な手段)」は、やはり取るべきではなかったと、後で考え直しました。ネットでなら、「作りものの映像」を流すことも不可能ではないので、信じて貰えるかどうかは分からないからです。

私は、ネットの潜在力に大きな期待をかけ、「必ずしも全ての真実を正確に伝えているとは言えない『現在のマスコミの問題点』を衝くのはネットである」と考えている人間ですが、そのマイナス面についても大きな懸念を持っています。特に、国際紛争に関係する問題については、「十分な思慮に欠ける一般大衆」を不必要に煽る「ネットへの過激な書き込み」には、それがどこの国の事であっても、本当に心を痛めています。

それではどうすればと問われても、現状では良い答えは持ち合わせていません。ただ、「反日的な書き込み」や「デモを呼びかける書き込み」を片っ端から削除して回っている中国政府の現在の行動には、感謝こそすれ、非難する気にはなれないのが、正直なところです。

普段なら、「自由であるべきネット上での言論を妨害するのは怪しからん」と怒るべきところを、怒るに怒れないのは、何とも複雑な気持です。日本でもし同じ事が起こったら、怒るのか、「この件については、よくやってくれた」と、「条件付で評価」するのかについても、なお迷いがあります。

コメント

  1. heridesbeemer より:

    来年の1月9日には、南部スーダンの独立の是非を決める住民投票がある。これは、2005年1月に成立した包括和平協定(CPA)に定められていたことだ。

     そこで、南部と北部の境界を引くことがひつようになっているが、わけても、Abyeiというところの帰属が問題となっている。というのも、今のスーダンの収入の8割は石油で、Abyeiは、oil richなところなので、北部も南部も領有を主張しているから。

     Abyeiについては、結局、南部と北部は合意して、ハーグのPermanent Court of Arbitrationに、境界の策定を依頼したのが、2009年1月だったか。その裁定結果は、2009年の7月ころに出た。

     Permanent Court of Arbitrationに出すには、条件があって、紛争の双方が、調停依頼に同意することが必要。竹島については、過去、日本は同意したが、韓国は同意していない。尖閣については、日本は、この線をとったことはないが、だしてもいいと思う。もちろん、中国が同意することが必要だが。

  2. 未来 より:

    私が思うのは、今の国境、領土に関する国際的な法律は、欧米先進国に都合の良いように出来ているように思います。
    全てが矛盾だらけ。だから、欧米以外では争いが絶えないし不満が起こります。
    例えば、南米の南のフォークランドはイギリスが占有していますが、地理的にそれは無いだろうと常識的に考えます。南米のアルゼンチンがフォークランドは俺のものと言うが、そもそもアルゼンチンは先住民の物ではないのか?
    また、シベリアの広大な土地はなんでロシアなの?
    なんでフランスは、いまだにタヒチやニューカレドニアなどの海外県が存在するの?