尖閣諸島ビデオ問題に関する一考 - 平井進

2010年11月15日 12:55

17世紀のイギリスの革命運動やその当時のジョン・ロックには抵抗権といわれる理論があった。その内容は、政府は国民の信託によって成立するものであって、その政府の行為が国民の信託を裏切るようなものである場合、それに対して信託を行った権限は国民に戻る(政府は統治する権限をもたない)というものである。すなわち、政府の方針に対して対抗することはその政府によって(反逆等の)罰則の対象とされるが、上記のような場合には国民に抵抗権とういうべきものがあり、そのような抵抗は正当化されるというものである。よく知られているように、この抵抗権の理論は、当時のイギリスの革命やその後のアメリカの独立革命においてその理論的な支柱となった。


9月7日に尖閣諸島の領海で中国漁船が海上保安庁の船舶に衝突した中国人船長への対応について、菅内閣は、当初、「法律に基づいて厳正に対応していく」ということであったが、船長は24日に突然、処分保留で釈放された。(その背景にフジタ社員の拘束やレアアースの輸出停止等の問題があったことは勿論であるが、ここでは触れない。日中関係を考慮するということは地方検察庁が判断すべきことではないので、ここでは内閣の対応として見る。)その後に内閣支持率が急落していることを見ても、(同時期の小沢氏の問題が絡んでいるとはいえ)国民がその内閣の対応に失望していることを示している。シー・シェパードのオーストラリア人船長が日本の船舶に侵入して今年3月に海上保安庁が逮捕した事件については、そのときの状況を示したビデオが公開されていたが、今回の中国人船長に関しては刑事事件の捜査資料に関することであるという理由で(この点はシー・シェパード事件の場合も同様であったといえよう)そのビデオは公開されていない。今回の合計約44分のビデオのYou Tubeにおける公開は、今月1日に衆参両院の予算委員会理事に約7分のビデオが限定的に開示された直後のことである。

今回のビデオ公開により国民はこの尖閣諸島事件の衝突の状況をようやく知ることができ、中国政府もこれによって従来の海上保安庁の船が中国船に衝突したという主張を変更せざるをえなくなったのであり(新たな主張は、中国船が衝突したのは海上保安庁の船が追いかけ回していたからであるということ)、日本国民と中国の双方にとってその事件のある程度の内容を踏まえた上で対応することができるようになった、すなわちこの公開は(国会で野党が主張してきているように)本来、内閣が行うべきことであったことであり、そのことが代わりに行われたということに意義がある。その点で、同時期に起きている国際テロに関する警視庁資料の漏洩問題とはその本質を大いに異にしている。

上記の内閣支持率を下げた国民は、内閣が今回のビデオ公開をその情報を管理していた者の守秘義務違反事件として対応していることについても失望していると見てよいであろう。今回の出来事が、政府が中国に対して日本の将来を含めた国益を損なわないように適切に対応することを期待していた国民の政府に対する信託を政府が裏切ったことに対するものであるとすれば、その情報を公開したことは政府の方針に対して国民の利益(国益)のために抵抗したことになる(これは、ニクソン政権のウォーターゲート事件に関してワシントン・ポストに情報を提供した政府関係者の例などにおいても同様である)。

抵抗権は実定法上の権利ではないが、様々な革命に見られたように国民の多くがそれを支持するときに事実上成立している自然法上の理論的な権利である。今回の出来事は革命というほど大袈裟なものではないが、内閣がこの問題を情報管理の犯罪事件として処理しようとしていることがその本来の責任のすりかえではないか(さらにいえばまだ隠されていることがあるのではないか)という疑念について(上記のウォーターゲート事件が野党の情報を探るという大統領としては小さな問題であったのに対して、今回のものは日本政府の外交とその国際的な評価に関わり、国民が大きく関心をもつ問題である)、国民の多くがそれを支持すると判断される場合の抵抗権の問題として見ることができるケースではなかろうか。政策が気に入らなければ何事であれ実定法に反して抵抗してよいというわけでないことは勿論であるが、実際には国民の期待度が高いものが国民の利益に反してそがれているような場合に、それに対して抵抗権という概念を想定してもよいようなケースもありうるのではないかというのが本稿での問題提起である。

なお注釈的にいうと、ここにおいて、「抵抗権」とは政府または内閣の存立に対する全面的なものではなく、内閣の政策や姿勢に対する部分的なものを指しており(これは「抵抗権」に関する新たな意味付けであるかもしれない)、この出来事について内閣が刑事犯罪として扱おうとするのであれば、そのことに国民の利益から見て正当性があるのかということである(内閣が情報を秘匿している限りその説得はできない)。裁判になれば、何が国益であるのかということについて争われることになろう。いわゆる沖縄密約に関する西山事件の裁判においては「言論(報道)の自由」が議論されていたが、今回問われているのは、公開による国民や国際輿論の利益と衝突して国家の利益があるとすれば、それは何かということである(当然に政権や官庁の利益と国家の利益とは異なる。ちなみに、外務省はいまだにその存在すら否定しているが、アメリカ政府はすでに沖縄密約文書の機密を解除している)。今回の内閣による情報秘匿について、そこに国益が存在しているようには見えないというのが大方の感じているところではなかろうか(今回の衝突状況を秘匿してきたことによって、日本政府は中国政府に対して外交的に「貸し」を作ることができたわけでもなかろう)。
(平井進 東北大学大学院)

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