名刺の自分からネットの自分へ

山口 巌

ブログすら全くやった事の無い私が、今年の初めから連日アゴラに投稿している。何故かと言うと楽しいからである。

ネットの中の自分が、少しずつだが、それなりにイメージと成り、格付けの様なものが適応されている事を感じる。無論、私の場合は最下位辺りをうろうろしている訳であるが。

1979年に大学を卒業し、そのまま企業に就職した私に取って、自分の名前が刷り込まれた名刺こそが全てであった。

世間から、それなりの敬意を持たれる「会社名」。「所属部門」が花形部門であるか否か。そして役職。

当時の、先輩達や同期も含め、本来考えるべき人生の目的、個人の幸せ、将来を想定してのキャリアパス等呆れる程、何も考えなかった様に思う。

会社が成長する事で、名刺の中の自分が、世の中から一目置かれて居るが如く錯覚し、年収が上がる事で、世の中での勝ち組の如く誤解した。

本当にその仕事がやりたかったのであろうか。唯、単に花形部門であると言う理由だけで所属を希望し、社内を肩で風切って歩きたかっただけでは無いか。

本当に、強く昇進を望んだのかも疑問である。要は、同期の一歩後ろを歩くのが嫌なだけだった様な気がする。

ある意味、名刺こそが全ての32年間の会社員生活だった様に思う。

名刺が、紙切れに成ったのは何時からであろう。

会社は何時まで生き残れるか判らない。会社が存続しても、自分の所属する部門が生き残れるか判らない。部門は残っても、自分はリストラされるかも知れない。今日の事業部長は、明日の役員を必ずしも意味しない。明日は無職かも知れない。名前と携帯の電話番号のみの名刺を持つ事に成る。

訝しいのは、若い人達が、今やレガシーでしかない、名刺の中に居場所を求め、就活を続けている事である。夥しい数の、手書きのエントリーシートと履歴書の作成。時間の無駄でしか無い筈である。状況が理解出来て居ないのでは無いか。

今、構築の努力をすべきは、ネットの中の自分自身であり、ネットの中での成長では無いか。

性別、年齢、勤め先、役職そして年収等何の意味も成さない。名前も適当に付ければ良い、写真も必要で無い。極めて自由であり、「アウトプット」の中身のみが、ネット読者に評価され、評価の蓄積がネットの中の漠然とした格付けに成る。

ネットの中で学び、学んだ事を体系化しアウトプットする。読者の批判を真正面から受け取り、反省すべきは反省し、学ぶべきは学び、次のエントリーに繋げる。

此の継続に拠り、ネットの中での自分のイメージを確立し、格付けを上げて行くのである。

デジタルデバイドとは、インターネット環境の有無では無く、実はネットの中に自分自身を構築出来る人間と、それが出来ない人間の差では無いか。

IT革命とは、名刺の中の個人が社会を構成する時代から、ネットの中の個人が代って社会をリードする社会への転換では無いか。無論、革命と言う以上は権力も継承される筈である。

若者は此のパラダイムシフトにベクトルを合せ、キャリア形成すべきと思うが。