「ゆとり」とはなんだったのか - 赤沢良太

2011年02月07日 11:00

蹴活の場でも、「ゆとり世代」の「浅いコミュニケーション」「いわれたことしかできない」「失敗を極端に恐れる」といった特徴が話題になっているが、あらためて、その由来といわれる「ゆとり教育」について考えてみたい。


学力低下は、1971年の学習指導要領の改定から始まっていた。それまで小学校の高学年で学んでいたことを低学年におろすということを行った。これにより、大量の落ちこぼれを生み、校内暴力が頻発し、社会問題となった。マスコミや日教組、財界からも「つめこみ教育」だという批判がなされたが、これに全く異なった処方箋で対応した。すなわち、「生きる力」という抽象的な概念を持ちだし、これが足りなくなったことが荒れの根本原因だとして、基礎演算練習の軽視はそのままに、道徳教育の重視、「理解」を重視した学習への転換によって、落ちこぼれ問題に対応できると考えた。1990年代に入ると、「新学力観」の名のもとにその動きは加速、さらに絶対的な授業時間数減が加わった。つまり、あまり詰め込みすぎたのが問題だったので、「ゆとり」を持って時間数も減らし、内容もやさしくしましょう、ということになった。これによって、九九などの加減乗除の基礎練習の時間はますますとれなくなり、多くの子どもたちが習熟不足のまま、進級していくという事態が生じたのである。

そして、「ゆとり教育」のもう一つの問題は、巷間知られている教える内容の削減よりも、以下のような授業観の変化が大きいと筆者は考える。現在までの教科学習、とくに算数・数学では、「問題解決型学習授業」が文科省の公の方針である。台形の面積を出す場合等、公式を覚えて、練習問題を解いて理解・習熟を図るといった姿勢は、望ましくないことになっている。クラス全員で「こうすれば簡単に求められるんじゃない」「いや、こんな解法もあるよ」といった討論を重ね、みんなが知恵をしぼった結果、公式で解答できるという結論に至る。こういった授業が「よい授業」とされている。しかし、毎時間このような授業をやっていては、問題などといている時間はない。だから、塾で練習問題を解いている者とそうでない者で、学力は二極分化している。このような授業は、格好もよく知的に見える。文科省はそのような感動的な授業を広めたかったのだろう。が、一部の国立大学付属のような学力の子どもたちでないと、成立しえないレベルの高い授業である。また、この授業スタイルは、教師の圧倒的な技量も必要である。すべての教師にそれを要求するのは非現実であろう。なにより、普通の子どもたちの学力というのは、練習問題の徹底反復が基礎になるのではないだろうか。

このような問題解決学習というのは、公立学校の実状にそぐわないのだが、文科省の推奨するこの方法を、現場の教員は真面目に行い、結果、単純な演算等の基礎基本軽視へとつながり、ひいては「分数のできない大学生」に至ったのではないだろうか。蛇足ながら、公立学校の教師は、文科省の方針には面従腹背だが、自分の子どもには塾に通わせ私立に行かせるということになんら葛藤はないように見える。

また、今後の指導要領は、脱「ゆとり教育」を志向しているが、もっとも特徴的なのは、算数の指導量の増加・難化である。スパイラル学習という言葉で説明されているが、重要なことは反復学習が必要なので、低学年に教材を前倒して指導しようという考え方である。私立の学校や塾では、これらは基礎基本としてすでに指導がされており、格差は依然残される。どうしてこうなったか、どうすればいいか。今の過渡期に、考えておく必要があるだろう。対策がないままこれが進むと、不登校の急増という結果になって跳ね返る。そして、ゆとり教育を主張した人々の逆襲が始まり、改革が遅れるというシナリオになっていくだろう。
赤沢 良太 (一級建築士)

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