中高生のヒーローはスポーツ選手だけか?

2011年03月07日 10:00

人にはそれぞれに得意なこと不得意なことがあり、大体において、好きなことは得意になり、嫌いなことは不得意になる。そして、この傾向は、子供の頃から見て取れ、中高生にもなればかなりはっきりする。


しかし、一方では、現在の社会では、多くの人達が「自由経済の仕組みの中で、少しでも高い収入が安定して得られる道」を求めて、その事を中心に物事を考えているのが実情だ。誰にでもチャンスがあるのだから、身分制度の厳しかった昔に比べればはるかに恵まれた環境とは言えるが、「自分にとっては厳しい社会だ」と思っている人も結構多いだろう。

この状況の中では、大体において、「頭が良くて、人付き合いを苦手とせず、前向きの思考をする人」が有利だが、名の通った学校を出ると良い会社などに採用される確率が高くなり、そうなると高い収入を安定的に得られる確率も高まる事から、現実には、子供の時から「受験」が全てに優先する形になっている。しかも、「受験」で有利になる為には、良い「塾」に行くのが必須とも思われている状況だ。

偏差値だけで格付けされ、下手をすると「落ちこぼれ」という範疇に入れられてしまう現実に、若い人達が納得しているとはとても思えないが、これに抵抗していても、確率のルールには逆らえず、大学を卒業する頃になっても就職活動が思うに任せぬと、「自分の一生はやっぱり出発点のところで間違ってしまったのではないか」と考える人は結構多いようだ。

「頭が良い」という言葉も、考えてみると、実にいい加減な言葉だ。頭の良さにも色々あるからだ。天才的な物理学者や将棋の名人は頭が良いことは間違いないと思うが、彼等の頭脳は政治的な駆け引きやビジネスの世界ではあまり生かせないだろう。要するに、何を目的と考えるかによって求められる「頭の良さ」の種類も異なるという事だ。「理科系」「文科系」という分け方も、殆ど意味があるとは思えない。

「偏差値の高さ」と「頭の良さ」にはある程度の相関関係があろうが、「頭は良いが偏差値は低い」という若者は沢山いるだろう。「会社が新卒者を雇用するに当たって、出身校で足切りをしていることが多い」という事はつとに知られているが、「有名校を出ていることは、受験勉強に耐えたという事であり、これは『頭がある程度よく、考え方が常識的で、忍耐力がる』ということを意味するから、会社が求める人材に適合する確率が高い」という判断がそのベースであるとすれば、それはそれなりに理解は出来る。

しかし、時代の推移と共に、会社が求める人材の種類も変わってきているであろうし、現在の自由経済社会での競争で優位に立つ為に必要な基礎的能力も変わってきている。「頭が良い」や「忍耐力がある」は常にプラスとなろうが、多くの企業が求める「考え方が常識的」などという「徳目」は、実は長点なのか欠点なのか分からない。

具体的なことを言うなら、今をときめくグーグルは、日本でも人材の採用に熱心だが、そこで求められる最大のものは、単純明快に「コンピューター・サイエンスの知識レベル」と「英語でのコミュニケーション能力」であり、これがなければ最初から対象にもならない。この能力は、別にグーグルに限ったわけでなく、日本の多くの企業が現在潜在的に必要としている能力なのだが、グーグルの場合はこれが際立って鮮明だという事だ。

ところが、日本の教育機関は、この様なニーズに的確に対応出来ているだろうか? 辛うじて何がしかの役に立ちそうなのは幾つかの専門学校ぐらいであり、一流大学の工学部や、経済学部、商学部を出ていても、彼等のニーズに応えられるレベルの人は殆どいない。残念ながら日本語は国際語になれていないので、英語についてのハンディキャップがあるのは致し方ないが、コンピューター・サイエンスについては、日本の大学の体制がアメリカの一流大学の体制と比べて比較にならない程低いレベルである状況は、放置されていてよいとは思わない。

私は、2月25日の小川浩さんの「デジタルネイティブの礼賛はやめて…」という記事に賛同して、その旨のコメントを出したが、これは「デジタルネイティブであるだけでは世の中を動かすことは出来ない」という趣旨に賛同したのであって、「デジタルネイティブである必要はない」ということを意味しない。デジタルネイティブであることは、今後の社会にうまく適合して心身ともに豊かな生活を送っていく上で、必須となる資質だ。

これは、今や、「頭が良い」とか「忍耐力がある」とかいうのと同じレベル、或いはそれ以上の「基礎的能力」の問題だと言える。コンピュータやネットを使いこなせなければ、判断のベースとなる情報の質量が他の人と比べて圧倒的に劣ってしまうし、その情報を分析する能力についても、分析の結果をうまく表現して他の人を説得する能力についても、格段に差をつけられてしまうからだ。しかも、情報技術は日夜進歩しているので、ここで一旦差がつくと、その差は幾何学級数的に拡大する。

現在の高校教育については、私が到底理解出来ないことが二つある。一つは「コンピューター・サイエンスとインターネット・リテラシーの基礎」が正規の教科になっていないこと。もう一つは英語(国際言語)教育に「ネイティブスピーカーが作った電子教材」が全くと言っていい程使われていないことだ。これは、寺子屋で「読み・書き・そろばん」を教えていないというぐらい非常識なことのように思えるのだが、一向にそれを問題にする声は聞えてこない。

こういう話をすると、必ず「教員の不足」という事が言われるが、「教員もプライドを捨てて、生徒と一緒に学んでいく」事を前提とすれば、問題は解決する筈だ。中国は大体こういうやり方のようだから、ぐずぐずしていると直ぐに中国に先に進まれてしまう。

しかし、今回特に私が言いたいのは、実はこのような「万人に必要な基礎的能力」のことだけではなく、「並外れた能力」の必要性のことだ。日本の産業界が真に国際競争力をつける為には、「ある分野での並外れた能力を持った人達の養成」が、どうしても必要だと考えるからだ。「常識的で真面目な人達が横一線で頑張る」体制では、とても他国には並べない。特に中国には一気に差をつけられる。

「情報技術の分野で突出した能力を持つ若者達を多数育て、彼等が切磋琢磨する環境を作る事」は、今や焦眉の問題であると思う。「情報技術が今後の全ての産業の核となる」のは先ず間違いないと思うし、俗に「Winner takes everything」と言われているように、この分野では、「発想の転換により、人に先んじる事」が勝負を決めるからだ。「金型作りの名人が中国で職を求める」といった事を問題視するのではなく、この様な事こそを、今の日本は真剣に考えるべきだ。

冒頭に書いた「偏差値で若者を格付けする」社会にも例外はある。スポーツと芸術・芸能関係がそうだ。この分野で人並み優れた能力を持つ若者は、何十万人に一人の確率でスターダムに乗れる。国民レベルでのヒーローになれる。それを夢見て、小学校に行く前から自分の子供達に英才教育を施す親達もいる。

しかし、持って生まれた力を発揮する事によってヒーローとなれる分野は、スポーツや芸術・芸能以外の分野でも数多い筈だ。科学技術の分野も当然その一つであって然るべきだ。潜在的な才能は早く見つけ出し、これを丁寧に育てていく必要がある。

テレビでもしばしば放映される工業専門学校の若者達のチームが競い合う「ロボット開発の競技会」はなかなか面白く、私はいつも興味を持って観ているが、対象はもっと拡げるべきだ。日本は伝統的にハードを重視する傾向があるが、これからはもっとソフトを重視すべきだ。

パソコンを駆使して優れたアプリケーションソフトを作り出し、或いは斬新なビジネスモデルを考え出す能力は、「情報通信技術についての深く広範囲な知識」の上に、「創造性」と「発想の飛躍」、「企業家精神」などが重なり合い、スパークした時に花開く。しかし、これを可能にする為には、優れた先輩や切磋琢磨する仲間との継続的な交流が不可欠だ。この為の私塾のようなものがどんどん生まれることが望ましい。

米国では、夏休みの子供達を引き受けて集中的に色々な体験をさせる「サマー・キャンプ」がビジネスとして成り立っている。最近出会った若い起業家の一人が、大学から施設の提供を受け、中高生がスマートフォンやタブレット用のアプリケーションの開発能力を短期間で集中的に身につけられる「キャンプ」を計画していることを知り、私は大いに意を強くした。「潜在能力のある中高生が、こういうところから始めて、どんどん上を目指していく」という展開は、現実的で望ましい事だ。

パソコンやネットに興味を持つ若者達が、単なる「オタク」として、ややもすると白い目で見られるような風潮を作ることだけは何としても避けたい。彼等を、「明るく、活力に満ち、日本の将来を担う」イメージを持つ「ヒーロー」にしていきたい。それを可能にする「健全で、レベルの高いコミュニティー」を作っていくべきだ。

また、一方では、彼等が未成熟なままに独善的な世界に閉じこもってしまわない様に、大人の会話の中にも、積極的に彼等を迎え入れていきたい。小川浩さんの記事にもあるように、高度な技能を身につけた彼等が、万事に前向きな姿勢を身につけ、「社会正義」や「隣人愛」といった事にも興味を持ってくれるよう、大人達は必要な役割を果たすべきだ。

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