記憶偏重入試はビジネスにおいても有効 ‐ 増沢隆太

2011年03月07日 13:06

京大カンニング事件で注目を浴びた現在の受験システムについて、見直しや批判が出ている。しかしながら、現状の記憶力を試す入試には重要な機能がある。記憶のインプットこそ、インテリジェンスの基礎となるからである。大学入学という、知の基礎作り段階における「記憶」の重要性は、大学学部教育そのもののみならず、ビジネスにおける成長にも不可欠なものとして指摘できる。


記憶力重視の入試形式が人間の能力の総てを計れないことは当然である。しかしそれをもって現在の入試システムを変えること理由とはならない。現行の入試システムには以下のように代えがたい理由があるからである。

まず第一に、コストの問題である。

マークシート等の客観式入試方法の対案となる能力測定で、現状のコストでカバー出来るものがあるだろうか。すべてを論文形式にする、面接を実施する、といった、「総合評価」を入試に導入することは理論上可能であろう。その場合マークシートで一括処理できる現状に比べ、採点の手間が激増するであろうことにどう対処するのか。小論文や面接の対応を素人アルバイトが出来る訳がなく、同時期に専門家を大量確保するという、実現困難な課題が出てくる。あるいは大学教員が現状の人員で対処するのであれば、当然その処理には今の何倍もの手間と時間を要する訳で、入試の時期等が極端な早期化されることが必要になる。

こうしたコストは誰が負担するのか。国立大学はもちろん私大も、極端な政府助成の縮減で、今以上にコストを背負うことは出来ない。そうなれば受験料にはね返るしかなく、現状3万5千円程度の受験料が数倍にはなり得ると思われる。

「政治とカネ」問題でも、何にカネがかかるかといえば、当然ながらワイロのような違法行為にカネがかかるのではなく、ポスター貼りやビラ配布等人件費にぼう大なコストが要るのである。活動にはカネがかかるのが当然で、教育問題も同じく、執行コスト抜きに語ることは出来ない。現実を知らない評論家や大富豪であるテレビキャスターたちは「人件費」コストという感覚を持たないので理解するよしもないのだろうが、実際の現場であれば、「誰が」「いつ」「何を」「何時間」動くため、いくらかかるのか、という計算抜きには何一つものは進まない。

第二に「記憶偏重への疑問」への疑問である。

ネット利用・資料持ち込みで対応できる能力、アウトプット能力が、昔と違い求められることが増えていることは間違いない。しかしそれは大学学部教育で求められることなのだろうか。そうしたビジネスの場で求められる事務処理能力を試すことが「大学入学試験」といして求められているものとはとえも言えない。

媒体や外部ソース利用能力がビジネスの世界で求められるものであっても、大学学部生の段階は、まだインプットの教育時期である。私は受験地獄と呼ばれた記憶偏重時代の大学受験システムに、一定の合理性を感じている。ひたすら記憶を重ねることが、修行としての基本になり、将来のアウトプットにおいてのベースとなるからである。インプット無しにアウトプットは無い。そのための底を広げるため、記憶偏重の大学受験システムは非常に有益である。一流大学を出さえすれば一流企業に入れる訳ではないのと同様、記憶力さえあれば良いという意味では当然無い。しかし記憶した知識ベース無しに、ビジネスで飛躍できるとはおよそ思えない。

特にエリート教育において、記憶をベースに基本知識を涵養しておくことは、文理問わず人間としての知性、インテリジェンスを磨く上で欠かすことが出来ない。こうしたリベラルアーツ素養の無い人物が、職業訓練的なせせこましいトレーニングをしたところで、そもそも有能なビジネスマンにはなれないだろう。大学全入時代を迎え、大学生はもはやエリートではない。ゆえに国や産業を担う一部のエリート候補たる、一流校受験生には、ぜひとも厳しい入試をクリアする地力と知力を身に着けて欲しいと思う。

ゆとり教育とともに広がってきたAO入試は、本来の多様な人材開拓という趣旨から外れ、少子化時代の顧客(学生)確保という営業的側面が否定できない大きさになっていると感じる。採用において、正規入学かAOかを確認する企業がある等という話は、そうしたAOの歪みを映しているといえる。

ヒットの要点をあつめて、大金を投入して、上っ面のマーケティングを行えば、自ずと一定のヒットにはつながる。(大金を投じる必要があるのでモトは取れるかどうか疑問)しかしそうして生み出された二番煎じ、二匹目三匹目のどじょうヒットは結局キャッシュッフローをもたらせただけで、何の資産(ストック)にもならなかった。

「あの人は今」で登場するかつての大ヒットメーカー、一発屋という類の人物や商品、サービスはストックとして存在できなかったのである。今現在スターのトップにいながら、どこかで聞いたことのあるような使い古されたフレーズや、売れ線メロディラインのパッチワークのような「作品」?で存在しているスターが、10年後どうなっているか、想像に難くない。

一方でレコード販売数はミリオンに満たなかったのに、その時代の人なら誰でも知っている、歌える歌謡曲は多数ある。誰もが利用した、買ったサービスや商品。そうした社会の基礎が、大きく揺らいでいる今の日本にとって、記憶を重視することは、地道な、しかし成長と飛躍には書かすことの出来ない基礎トレーニングである。

カンニング等の不正を行うことは、一生を棒にふるかも知れないリスキーな選択肢である。社会は完全合法だけではまわっていないのも事実である。しかし非合法な行為を行うのであれば、一生を棒にふるかも知れない覚悟を決める必要を自覚させる。非合法なことに手を染めるということは、そこまでの腹をくくることが求められるのだという認識を持たせる必要がある。

カンニング事件は、謝れば済む、反省すれば出直せることでは無い、重い社会規範を知らしめる、よい倫理教育の機会であると考える。

(増沢隆太 東京工業大学大学院 特任教授 人事コンサルタント)

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