カンニングをほめていいのか? ‐ 森 邦彦

2011年03月09日 12:03

今年の入試におけるカンニングに関する議論が今も錯綜している。あたかもサッカーの試合でハンドした選手にペナルティを課すべき局面で、手の使用の是非や審判の権限を議論しているような状況である。本来分けて議論されるべき様々な議題がゴチャゴチャになって飛び交っている。


すべての議論は追いきれないながらも、気になるのは、カンニング行為を非難する代わりに、摘発できなかった大学側の落ち度を問うたり、あまつさえ行為者を賞賛する発言である。マラソンで抜け道を通って優勝した選手を賞賛し、違反を摘発できなかった主催者側を阿呆呼ばわりするようなものである。なかでも茂木健一郎氏やちきりん氏のような影響力のある識者たちがtwitter上で今回の行為を容認しているかのようにとれる発言をしている。茂木氏に至ってはtwitter上で「日本のwikileaks」とまで持ち上げている。

本稿では「入試におけるカンニング行為を容認/賞賛していいのか」の一点についてのみ議論を絞り、以下4点については議論の対象外とする。すなわち、

(1) 入試制度の問題点・あり方。
(2) カンニングに対する監視・罰のあり方。違法性、被疑者逮捕や個人情報が晒されたことの是非。
(3) 大学の自治について。警察の介入行為の是非。
(4) 今回のカンニング行為の画期性。

以上はここでは議論しない。

改めて述べるまでもなく、入試は定員枠を争う競争であり、通常、試験時間中に解答のために他者の助けを借りることはルール違反である。たとえ、そのために画期的な通信手段を開発したとしても違反は違反である。今回のカンニング行為を容認しているとしか思えない発言の類は、カンニングが不正競争行為であることに目を瞑り、加えて当事者である他の受験生の被る不利益に対する配慮が欠落している。

受験生の心理的重圧を鑑みれば、カンニングの誘惑が兆したとしても不思議ではないが、考えるのと実行するのとでは天と地との開きがある。カンニング行為は成果(合格)に及ぼす効果が不確かであり、さらに被害が見えにくいため、行為者は罪悪感を感じにくく、さらには傍観者の容認姿勢を招きやすい。

発覚したカンニング実行者は受験から追放されるだけだが、問題は発覚しないカンニングによる見えない被害者である。カンニング行為の結果合格した人数を知り得ない以上、カンニング実行者数および捕捉率等について定量的なことは語れないが、毎年受験の毎に発覚しないカンニング行為の結果として、定員枠から弾き出される不合格者が発生していることは単なる空想とは考えられない。たとえ、本人の被害認識がなくても、これは明らかにカンニング行為による被害者であり、多くの場合、精神的・金銭的打撃を受けていることが想到される。

今回のカンニングを容認しているとしか思えないような発言の類は、受験生のカンニング行為に対する心理的ハードルの低下をさらに助長し、結果としてカンニングによる見えない被害の拡大につながりかねない。

「カンニングなんて犯罪でもないし、たくさんの人がやってることじゃん」

論文データの捏造は犯罪ではない。だからこそ研究者には例え人目がなくともインチキをしないモラルが求められ、相応の敬意が払われる。同様に不正競争行為であるカンニングも犯罪ではない。だからこそ受験生も相応のモラルを持つべきで、社会はそれを期待し注視すべきである。

結局、受験生を取り巻く我々自身の姿勢が問われているのである。
(森 邦彦 NTT主任研究員 )

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