続・カンニング受験生の逮捕は「行き過ぎ」という議論は「常軌を逸している」という意見は、常軌を逸している ‐ 杉井 英昭

2011年03月09日 14:24

本稿では、前記事に引き続き、玉井克哉氏の意見に対する反論を試みます。前記事では、玉井氏の意見が、「カンニング受験生の逮捕は適法か否か」という観点からは正当であることを現行法に即して説明した後、しかし問題の核心はそこにないことを示唆し、結論を述べたところで、紙幅を使い切りました。そのため、後半の段落の趣旨は理解されにくかったと思います。そこで、本稿では、前記事の補足を兼ねた説明を致します。


なお、タイトルにはかなりキツい表現を使いましたが、あくまで注目を引く意図に留まり、玉井氏を侮蔑する意図は全くないことを付言しておきます。批判は誹謗とは異なるものであり、対象者の名誉を尊重して行うべきだと思っております。

また、本件には、以下で述べる論点以外にも、「本件受験生による行為の偽計業務妨害罪への該当性」」「大学が被害届を出すことの当否」「マスメディアの取り上げ方の当否」等の論点が想定されますが、問題点を絞るため、触れないことに致します。

それではまず、前記事の要点を簡単に摘示しますと、以下のようになります。

<<ある行為が犯罪に該当するかどうかは、裁判所が法律の解釈適用によって判断することであって、捜査機関は判断機関ではない。犯罪に該当するかが必ずしも明瞭でなくても、法定の要件さえ満たせば、逮捕は適法に行うことができる。そして、本件カンニング受験生の逮捕は適法である。>>

しかし、前記事の終盤で述べた通り、問題の核心はここにはありません。

まず、犯罪該当性の有無と逮捕の適法性・不当性の関係について見ましょう。

玉井氏は「犯罪かどうかを世論によって左右するのはおかしい」と述べられていますが、これは言うまでもないことです。何が犯罪であるかは、国民の代表機関である国会の定立した法律(条例や政令ではダメ)によって定められていなければなりません。この原則は「罪刑法定主義」と呼ばれ、近代刑法の基本原則であると共に、日本国憲法の要請でもあると考えられています。

しかし、前記事で概観したように、犯罪該当性が明瞭でなくとも逮捕は適法たり得ます。また、「逮捕が不当である」という主張は、本件行為が犯罪には当たらない(刑法学上、構成要件該当性がない、という言い方をします)という主張とは異なります。これも前記事で解説したように、不当論者は、行為の犯罪該当性とは別の問題として、逮捕の不当性を主張しており、前者は後者とは無関係であるか、あるいは根拠の一つとなりうるに過ぎないのです(犯罪に該当するかが曖昧な行為なのに逮捕するのは不当だ、という主張はありうる、という意味において)。

以上を要すれば、本件行為の構成要件該当性は、本件逮捕の適法性・正当性とはほとんど無関係だということです。

次に、逮捕の違法性と不当性との峻別の問題に移りましょう(これが一番重要な問題)。

逮捕が「不当」であることは、「違法」であることとは別論です。つまり、現行法に照らして適法な逮捕であっても、それが同時に不当な逮捕でありえます。なぜなら、不当かどうかは感情の問題だからです。しかし、「感情論」として容易に切り捨てられるべきではありません。

といっても、もちろん、素朴な「感情は大切」論(?)を主張しようというのではありません。

ここで、まず、「法治国家」という概念とその多義性の説明によって、適法と正当の峻別に関する例を見てみましょう。

例えば、20世紀前半のナチス政権下のドイツや同時期の日本で行われた、国家による数々の権利侵害行為は、法治主義にのっとり、「適法」に行われました。ここでは、法治国家においては、行政は法律に従わなければならない=法律に従ってさえいればどんな権利侵害も可能である、という意味に解釈されました(「形式的法治国家」と言います)。言い換えると、「法治主義」は、自由主義や民主主義とは関連のない(あるいは薄い)形式的・手続的な概念に過ぎませんでした。

これに対して、現在の日本は「実質的法治国家」へと移行しています。すなわち、法律といえども無制限ではなく、一定の制限に服するという考え方に基づいているわけです(これは、ドイツ的な「法治主義」ではなく、英米的な「法の支配」の観念に近いと言われます)。具体的には、法律といえども、基本的人権ないし憲法上の権利を侵害(≠制約)することは許されない、ということです(その制度的担保が、最高裁判所による違憲立法審査権)。

さて、ここまでお読みの方にはご理解いただけたかもしれませんが、本件カンニング受験生の逮捕が現行法にのっとれば適法であるからといって、必ずしもそれが「正当」であるとは限らないのです。

ただし、大仰な話をしたところで拍子抜けするようなことを言いますが、私の主張は、本件逮捕が「憲法に反する」などということではありません。上記の憲法についての話は、違法と不当との峻別についての例示的な解説に過ぎません。

重要なのは、「逮捕は不当だ」という我々一般国民の感情は、傾聴すべきものであって、「常軌を逸している」と一蹴されてよいものではないということです。

それでは、なぜ単なる感情論が傾聴すべきものなのでしょうか。

その理由としては、第1に、捜査機関等に対する抑止力、第2に、法解釈の非硬直性、第3に、法律そのものの非恒久性が考えられます(もちろん、これに限られるという趣旨ではありません)。

第1に、捜査機関等に対する抑止力について。

今まで逮捕の違法という言葉が何度も出てきましたが、そもそも逮捕が違法であれば、その後どうなるのでしょうか。

日本の法律上(正確には判例上)は、逮捕が一定の要件を満たす「重大な違法」であれば、違法な逮捕やそれに引き続く捜査によって得られた証拠が裁判で使えなくなる場合があります。これは捜査機関に対する一種の制裁として機能します。しかし、逮捕が「重大な違法」とされる場合はそれほど多くありません。その結果、多くの違法逮捕に対しては、刑事手続上何らの制裁もありません。

それでは「違法」という意味がないではないか、というと、そうとも限りません。
法律上何らの制裁もないといっても、違法な捜査をした警察官には、様々な事実上の不利益が及ぶかもしれません(例えば、出世に響くかもしれません)。そうでなくとも、(重大でないとはいえ)違法と判断されたものと同様の捜査方法を、以後はとらないようにするべく、検察・警察としては気をつけるようになるでしょう(もちろん、これらには事実上の効果に留まるという限界はありますが)。

このことは、仮に裁判所によって違法とまではされない「不当」と感じられる逮捕にとどまるものであっても、同様なのではないでしょうか。すなわち、国民が捜査を「不当」と弾劾すれば、捜査機関による違法な捜査に対する事実上の抑止力になりうるのではないでしょうか(なお、今回の事件の場合、捜査機関のみならず、被害者である大学側に対する被害届提出行為の抑止としても働くかもしれません。その当否は措くとして)。

第2に、法解釈の柔軟性について。

法律の条文は、抽象的であることがあります。その場合、形式的に事実をあてはめるだけでは結論が出ません。そこで、「法律の解釈」ということが行われます。

前記事で見たように、逮捕の要件である「逮捕の理由」と「逮捕の必要」という要件は、それだけでは抽象的な文言であり、解釈が不可欠です。そして、どういった解釈を採用するかは、最終的には裁判所・裁判官に委ねられています。

しかし、裁判官は「自己の良心」に従って判断するとはいえ、一般国民としての通常の感情をも考慮要素に入れないわけではありません(その意味について、ここでは深入りしません)。したがって、国民感情ないし世論というものは、裁判官による法解釈をも動かす力があると言いうるのです。

ましてや、現在は裁判員制度が施行されており、一部の刑事事件については、一般国民が「裁判官役」を務めることがあるのですから、上記のことがより当てはまると言えるのではないでしょうか。

第3に、立法論について。

前記事で、現行法上の逮捕の要件について説明しましたが、読者の中には、あまりに緩やかな要件で逮捕が許されることに驚いた人もいるのではないでしょうか。

例えば、裁判の結果、事後的に無罪とわかっても、逮捕自体はあくまで適法である、ということがありうるわけです(むしろそれが通常)。しかし、一般的な日本人の感覚は、「逮捕される」=有罪というものです。もちろん、その感覚自体が間違っているのだ、と言うのは容易ですが、こうした感覚を根底から変えるのは困難です。また、そもそもこうした感覚がある以上は、それを前提に物事を考えるべきという意見もありうるでしょう。

そこで、本当に現行法の逮捕の要件はこのような緩やかなものでいいのだろうか。今回の受験生の逮捕が適法とされてしまうような法律でいいのだろうか。という議論は、(根本的には単なる感情に基づくものであれ、)立法論としてなされうるわけです。感情論を「常軌を逸している」と一蹴してしまうことは、このような議論を封じ込めることにもなりかねないという危険があります。

以上の理由から、逮捕は「行き過ぎ」という感情に基づく議論も、傾聴すべきものであって、決して無下にすべきものではないと考えられるのです。

(杉井 英昭 法科大学院生)

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