学歴とは、なにか。

2011年03月12日 16:05

昨日からの地震による被災者の方々に心よりお見舞い申し上げます。

京大カンニング事件に私たちがこの事件に拘泥した大きな原因は、学歴にかかわるからだろう。学歴は怪物である。


人々は、いつも他人の学歴を確認している。学歴は、あくまでシグナルである。中身ではない。しかし、学歴はいつも差別を孕んでいて、私たち日本人の自意識にも根深く関わっている。

私自身は、学歴について偏見を持っているつもりはない。が、学歴を論じるには、結果学歴の有効性を認めることになる。なぜか。学歴について発言すれば、自身の学歴を問われてしまう。少なくとも日本では。それに対し、自身の学歴が相応しければ、なるほど、と言って納得されるし、そうでなければ学歴に相応しくないが殊勝なことを言う人だ、と扱われてしまう。

ランク付け、という行為そのものは、非難されるいわれはない。アゴラの記事にもランキングはつくし、本、映画、音楽にもランキングがある。しかし、学歴のランキングは、その序列が画一的でその影響も大きい。ゆえに学歴はそれ以外の多様な評価を見えなくしてしまう。学歴とは、あくまで偏差値というごく一面的な能力にもかかわらず、人格すべてに対する絶対的・客観的な評価基準として通用してしまっている。それだけ大きいものであるがゆえに、それを不正に取得しようとする者には、過剰な懲罰がくわえられるのだろう。

多くの世の中の人は、学歴を憎んでいる。だが、世の中の大半は、学歴主義者である。多くは受験戦争の激化を憂慮している。しかし、お受験の低年齢化は進むばかりだ。なぜなのだろう。答えはシンプルだ。受験の当事者と評論する者の間で、意見が違っているからだ。同じ一人の人間が、受験時には当事者として激烈な競争を戦い抜き、それ以後は評論家として発言する。ダブル・スタンダードである。

「学歴なんて無意味だ」というご意見は昔からある。「学校のお勉強なんて、世間ではなんの役にも立たないよ」と彼らは言う。確かに伊勢物語や三角関数を知らなくとも世間はわたっていける。だが、これだけで学歴を「無用なもの」と言い切るのは困難だ。むしろ学歴に拘泥しない生き方をしている人のほうがスマートだ。けれど、この学歴をひとつの嗜好のように見る見方は、学歴を絶対視している大多数の人間に対しては、説得力を持ちえない。共同幻想だから。

論点を変えよう。学歴の効用である。学歴は社会的階級の上昇が期待できる。有名人の子弟が有名になる。お金持ちの子がお金持ちになる。が、せめて学歴だけは、権力や家柄などから自由であってもらいたい。あるべきだ。

が、お受験戦争の低年齢化を見ていると、その学歴さえも世襲されている感がある。あまつさえ、高度成長が終わって、社会に流動性が消滅しつつある昨今、日本社会は閉塞感を充満させている。資産だけでなく、社会的な地位まで世襲されて、階級が固定化されては、まるで身分社会だ。持たざる者に残された最後の望みの場である学歴が、持てる者になびいたら、この国も末だ。この先、学歴は、以前ほどの影響力を失って、持てる者の社会的記号程度になっていく。

学歴社会の崩壊とともに、日本の繁栄が終わりをむかえるというのならば、それはそれでよいだろう。残念はあるが。

・・・いずれにせよ、学齢期の方々には、すべからく勉強することをお勧めする。勉強が何かの役に立つと言っているのではもちろんない。社会に出てみると、テストの点よりも、態度である。つまり、理解していようがいまいが、他人の話をつつましく聞くということが、この社会の一員であるためには必要不可欠な能力である。高学歴でありながら、社会に対し偏屈であるという人間は意外に多い。私も含めて。ただ、学歴みたいなくだらないことで、就活や日々の事がらでいちいち損をするのはつまらないから、偏差値だけはしっかりキープしておこう、とだけ言っておく。もちろん、不正はいけないが。

赤沢 良太(一級建築士)

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