非常時への対応能力

2011年04月25日 10:00

日本には「備えあれば憂いなし」という格言があるが、これは考えてみると少し変な格言だ。本来は順序が逆で、「もし『憂い』があったとすれば、『備え』をするのは当然であり、もし『備え』がなかったとすれば、それは『憂い』がなかったからだ」というのが真実の姿だからだ。(日本にしかこの様な格言はないと誰かに聴いた記憶があるが、もしそれが事実なら、海に守られてきた日本には「外敵の侵入」という「最大の憂い」が少なかったのがその理由ではないかと思う。)


原子力を扱う限り、「事故」とそれに伴う「放射性物質の拡散」という「憂い」が常に存在しているのは常識である。今回それに対する「備え」(例えば、事故が生じた時の対応マニュアルや必要機材の整備)がなかった事は、「『原発は絶対安全』と言い続けてきた為に、それに矛盾する事をするのが憚られ、本来持っているべきだった「憂い」を自ら打ち消してしまった」という最悪のパターンだが、それについては既に言い尽くされたことであるし、今回の記事のテーマではない。

今回の記事でテーマにしたいのは、仮に常日頃からきちんと「憂い」を持ち、相応の「備え」もしていたとしても、「『予想を超える深刻な非常事態』に直面した日本政府や東電は、果たして機敏な行動を取れたであろうか」という問題である。「憂い」が少なかった日本には、本当の意味の「非常時」も少なく、従って「非常時に必要な機敏な行動」を元来苦手にしてきたのではないかと私には思えてならない。

(これに対し、「非常事態」に直面して最も機敏な行動が出来るのは、恐らくは全世界に2千万人いるといわれるユダヤ系の人達ではなかろうか? ローマ帝国の弾圧を受けて国を失ったユダヤ人は、全世界に流浪せざるを得ず、各地で差別と迫害を受けた。彼等にとっては「憂い」と「備え」が日常そのものだったから、「非常時」やこれに類する「時代の変わり目」では、常に機敏に動いてきているように思える。)

しかし、この様な「非常時」に対する日本人の一般的な弱さは、一般大衆よりはリーダー層、特に「国」や「大企業」において特に顕著であるように見える。「新興企業」や多くの「中小企業」は、そもそも生まれながらにして「安定」とは無縁であるが故に、常に覚悟が出来ており、その分だけ「非常時」には強いのかもしれない。

新興企業や中小企業が「非常時」や「時代の変わり目」に機敏な行動が取れるもう一つの理由は、これらの会社の経営者には、自分で腹を括って何でも決定出来る「創業者」が多いという事もあろう。これらの経営者の多くは、自分の「哲学」、即ち「自分は何の為に毎日必死になって仕事をしているのか」という事に関しての「確固たる考え」を持っているケースが多いが、大企業の経営者の多くは、サラリーマンとして就職し、色々な「能力」(特に「上層部の信頼を得る」「大きな問題を起こさない」等の能力)と「幸運」で社内の勝ち抜き戦に勝ち残り、今日の地位を得た人達が多い。

従って、「非常事態」に直面した時、創業者型の経営者は、何よりも自らの哲学を心の拠り所とし、最悪のケースを想定しても「俺が作った会社を俺が潰して何が悪い」と心の中で開き直れるのに対し、大企業のサラリーマン経営者は、最終的には「先輩達が営々として築いてきたものを自分の代で失うのは申し訳ない」という気持が働くであろうし、それ以前に、「周囲の事を色々考えて妥協案を探る」「手続き面では絶対に齟齬がない様にする」「最悪時の言い訳を用意して、自分だけが批判される事を回避する」等々、これまで日常的にやってきた事が頭の中を駆け巡るだろう。

また、大企業は一般的に分業体制であるが、日本の大企業の特質として、文系と理系が厳密に分けられており、大体において文系が優位である。例えば東電の場合は、原子力担当役員の筆頭は「土地収用と地方公共団体などへの根回しに長けた文系の役員」であり、「原発そのものに詳しい理系の役員」は常に「次席」の地位に甘んじていると聞く。

東電のような公益的な色彩の強い企業では、その文系役員の最高位に位置するのは、政治家や官僚との付き合いが長く、彼等から信頼され、若干は畏怖されるようなタイプの人達であるようだ。東電の場合は勝俣会長がこれに当り、コストカッターとして黙々と実績を上げてきた清水社長は、「この様な実力会長があってこその社長」という色彩が強かったように漏れ聞いている。

「非常時」への迅速な対応は、確固たる哲学を持った強い指導者の下でなければ出来ない。「合議制の組織」「最終的な決定を誰が行うか(例えば、会長か社長か)が不明確な組織」「手続き至上主義的な気風を持った組織」では難しい。「哲学」(例えば、「たとえ会社を潰すことがあっても、放射能汚染だけは絶対に最低限に抑える」というような絶対的価値観に支えられた決意)の欠如も、致命的な欠陥になる。今回の原発事故に際しては、不幸にして、まさにこの様な組織による「決定と行動の遅れ」が、問題を拡大してしまったように思えてならない。

これから再生の道を歩む東電を国営化すべきと意見があるが、私は必ずしもそうは思わない。国営であってはいけないとは思わないが、国営である必要もないと思う。電力事業は国家経営の基本に位置するものであるし、原発が絡んでいる限り、一営利企業に全てを委ねるわけにはいかないのは明らかだ。従って、今回のように「政府が救済に乗り出さなければ経営が破綻する」という特殊事情があろうとなかろうと、東電のような会社が政府の強い統制化に置かれるべきは言を俟たない。しかし、その事と「国営か否か」は別問題だ。

国の政策としての原子力政策は、「国民の安全と健康」を最上位におき、その下に「産業政策」が位置する「一元化された整然たる体制」の下で企画運営されなければならない。従って、その為の組織は、当然内閣総理大臣の直轄下におかれるべきだ。しかし、組織が複雑化、肥大化する事は絶対に避けるべきだ。「各省庁の意見の調整に時間がかかる」等という現在の体制は、断固として打破しなければならない。

国営化されようとされまいと、東電などの電力会社に求められる事は明らかだと思う。

1)何事によらず「情報の開示」を徹底すること
2)「企業哲学」を明示し、それが国家目標と一致している事を担保する一方、政府や地方公共団体、マスコミとの間に不健全な「貸借勘定」を作らないようにすること(天下りは拒否すること)
3)非常時に対応して迅速に動ける「組織体制」を固め、「決定の手順」を明確にしておくこと

等々がその中核であるべきだ。

一部の人達の思惑の為に長い間「憂い」を封印してきた日本だが、「憂い」が明らかになった今こそ、「備え」に万全を期すことが急務だ。そして、その「備え」は、公明正大で誰の目にも分かり易いものであるべきだ。

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