国家資本主義と闘ってはいけない - 『自由市場の終焉』

池田 信夫

自由市場の終焉―国家資本主義とどう闘うか自由市場の終焉―国家資本主義とどう闘うか
著者:イアン・ブレマー
販売元:日本経済新聞出版社
(2011-05-25)
販売元:Amazon.co.jp
★★★★☆


20世紀最大のイデオロギー闘争だった資本主義と社会主義の闘いは、前者の圧勝に終わった。今から社会主義を建設しようという国はないだろう。しかしそれに代わって新しい脅威になりつつあるのが、経済体制としては資本主義でありながら、国家が基幹産業をコントロールする国家資本主義である。

その例として本書で検討しているのは産油国、旧ソ連、インドなどだが、中でも最大の脅威は、いうまでもなく中国である。それは市場経済を拡大しているが、銀行やエネルギーなどの基幹産業は国有であり、国務院(政府)がマクロ的な「経済計画」を立て、その下部組織が国営企業を使って計画を実行する共産党独裁の計画経済である。しかし意思決定が速く一致して実行できる「開発独裁」のほうが効率が上がる場合がある。

目標が明確で技術移転の容易な途上国には、国家資本主義が適している。その代表が日本である。本書は戦後の通産省による指導は高度成長に大した役割を果たさなかったという立場を取っているが、法的な規制は少ないが非公式の行政指導によって政府の関与は大きかったという説もある。今でも政治家や官僚の頭には、国家資本主義的な発想が根強く残っている。

国家資本主義の特徴は、政府主導で輸出を拡大する重商主義である。これに対して、かつてのアメリカのように保護主義で報復する考え方もあるが、本書は国家資本主義と同じ土俵で闘うのは賢明ではないという。中国やインドの得意とする低価格の工業製品で先進国が競争することはできないのだから、安い工業製品は輸入し、先進国に比較優位のある知識産業などで競争すべきだ。

しかし、これは日本にとってはむずかしい。日本の産業構造は製造業中心の「新興国型」のままで、政治家も官僚もこうしたアジェンダ設定の変化に気づいていないからだ。TPP(環太平洋パートナーシップ)をめぐっては農業問題ばかり論議され、知識産業やサービス業をどうグローバル化するかという問題は認識さえされていない。

著者も指摘するように、国家資本主義の優位は一時的なもので、キャッチアップの段階が終わると、法の支配にもとづく自由市場が必要になろう。与えられた目標を達成するだけでなくイノベーションが重要になると、国家がそれを生み出すことは困難だからである。しかしITの分野でも、中国は日本の先を行き始めている。むしろキャッチアップ型の産業構造を脱却するのは、日本の課題だろう。

コメント

  1. harappa5 より:

     今私の手元に野口悠紀雄氏の「日本経済再生の戦略」という十年以上前の本があります。
    問題設定や経済の構造的問題に対する批判は、今と変わりません。何十年も前から問題が意識されて、変わらない理由は、どうしてでしょうか?変わらなければ、変わらない事を前提にして今後の国家戦略を考えなければいけないのでしょうか?

  2. rityabou5 より:

    国家資本主義のデメリットになる要因はいろいろあるでしょうが、そのベスト10に必ず入ると思われるのが『既得権益、利権、天下り、政治官僚民業の癒着』でしょう。
    民間が正義の塊だとは言いませんが、こっちは度が過ぎたら法で裁かれて責任者が追求される。

  3. tetuko_trail より:

    東日本大震災は、言っては何だが、天佑という見方もある。断っておきますが、私も仙台で被災者です。しかし、今回の大震災の後始末こそ、日本が大きく変われるチャンスである。大震災も怖かったけど、自民党を中心とする失われた20年、民主党の傀儡政権も合わせるともっとかも、世界の変化や国民の実生活に目を向けない政策こそ、百害あって一利なし、そして価値観の硬直化こそ、じわりじわりとボディーブローのように国民の体力と、やる気を削ぐものはありません。今回まさかとは思いますが、TPPの関与の仕方、東北の農業や漁業など製造業以上に中国に任せた方がいいようなモノを、ギガントマニアのように、古ぼけた補助金一点で復興を旗印に押し通すのか、それとも原発の既存エネルギー技術の刷新や新エネルギー、また沖縄やインドでさえ参入できる情報や知的財産権にめざめて、新しい価値観に東北を導くのか、民主党政権のキモが試されると思う。成功する方を祈りたいのですが、万が一失敗の後は、それこそ東海や南海の群発地震、マグニチュード9.5程度震度エイトで、近畿、東海、そして首都全滅まで、日本は目覚める事はないでしょう。

  4. yeelee より:

    原発は国家資本主義にこそふさわしい発電方法かもしれません。
    原発による国益のために、有無をいわさず、国民にリスクをとることを強要できる。
    もしリスクを最大限に隠す必要がなく、軍事的センスの延長で原発リスクに当たっていれば、(死者は増えても)経済的被害は最小化されるように思える。
    ありえないことだが、もし仮に石炭火力より原子力が先にエネルギー資源となっていても、原子力のほうが安全だっただろうか。
    人類最古のエネルギー源である人力の3600TJ/hあたりの死者数は、石炭火力と比べてどのくらいだろうか。
    そう考えると、この時代にやっと原子力が活用され始めたのは幸運だ。
    これからの世界では、国家資本主義国が、ウランを石炭のように乱雑に扱いながら採掘し、ロンドンスモッグのかわりにチャイナシンドロームスモッグを抱えながら、TW/hあたりの死者数の統計値を塗り替えていく時代になるかもしれない。
    そのとき日本の発達した原発技術とFUKUSHIMAケースの知見がせめて、これから炭坑節ならぬウラン坑節を歌うことになる最下層労働者たちの死者数を減らしてくれるだろうか。
    人類にとっては、医療が発達し、政府の情報統制力は弱く、スパイ天国である日本で、未曽有の原子力災害が起きたのは、良いことだったのかもしれない。

  5. hiratayukai より:

    日本人は根っからの「村人」でしょう。
    雇用の流動化ができないのもそれが理由です。
    「会社」というムラの中での作法に従うことが重要であり、職業としての技能などどうでもいいことなのです。
    製造業は「ムラ」というシステムがもっとも効率的に機能する業態です。分業、協働、上→下の命令系統など、システム化されたルーティンワークという「考えなくてもいい」世界の中で村人は人生と労働を平易化していくのです。
    「昨日までの世界が今日も正しい世界なんだ」という妄想にしがみつき、全てのチャンスをドブに棄てている姿にはまさに「民族の限界」を感じますな。
    産業を活性化し、雇用を生みたければ、ムラを都市に変える必要があるが、感情論がそれを阻害する。
    くっついた村人を引き剥がし、「個人」にしていく必要があるが、それも感情的拒否感に遮られる。
    そのうち「大飢饉」がきてみな野垂れ死ぬまで引きこもり続けるのだろう。
    この憐れな民族にできることは「生き残るための」議論ではなく、「死後の世界」について語り合うことくらいだろう。
    いっそのことみんなで「ゾンビ」になるほうが幸せなのかもしれませんな

  6. usau3 より:

    国策による原発推進/製造業の堅持で国際競争力を維持しようというのは、「国家資本主義の土俵で闘う」ということに他ならないような気がします。
    その文脈でいえば、自由市場への導入がほとんど不可能な原発(開発や運用にあたって周辺住民の安全や異論をある程度無視できる独裁的・統制国家と相性が良い)に比べて、民間の参入・競争が容易で新技術の開発によって知財の蓄積が得られる自然エネルギーへの早期転換はいずれにしても日本のとるべき道であるように思います。

  7. はんてふ より:

    >>日本人は根っからの「村人」でしょう。
    雇用の流動化ができないのもそれが理由です。
    「会社」というムラの中での作法に従うことが重要であり、職業としての技能などどうでもいいことなのです。
    >>
    江戸時代の階級比率をご存知ですか。武士・公家などの支配階級が1割、農民が6割、商・工・漁村・その他3割といったあたりだと思います。士農工商と言いますが、これは形式的なものであって、江戸時代中期以降、米の生産が向上し、農村を抜けだして江戸などの大都市に移住する人が増えました。
    日本民族の特性を、全て農村文化に求めるのには抵抗があります。私の実家も江戸末期から続く商家であって、農村文化なんてありません。祖父城内伊太郎は地場系証券会社を共同設立しました。
    あなたの日本民族に対する心理的優越については、もう散々論じたので問題にしません。