バーナンキのジャクソンホール講演の意味

小幡 績

まったく意味がない。

しかし、まったく意味がないところに意味がある。


池尾和人氏の議論には100%賛成だが、さらに一歩踏み込んでみたい。

実際に講演の原稿を読んでみると、そのトーンに驚く。FRBによる具体的な金融政策の変更、実施の可能性の言及など、お愛想程度だ。それを騒ぎ立てるマーケット関係者も詐欺行為と見るか、哀れと見るか、それはこちらの状況に余裕があるかどうかによる。

そのあたりは別のところで書いたので、そちらに譲るとして、それよりも重要なのは、池尾氏も言っているように、金融政策は何も出来ない。財政政策に頼るしかない。財政当局、政府、そして政治的なゲームをしている議会を非難するのにスピーチの後半の大部分を使っている。池尾氏は、金融政策は魔法の杖でないのは当然だと述べ、池田信夫氏は、金融政策から財政政策へと述べている。

しかし、私はもう一歩進めたい。財政政策も金融政策以上に無力である。

その意味で金融政策から財政政策へという議論は出来ない。バーナンキも財政政策になると突然饒舌に語っているが、その中身は誰でもしゃべることが出来る陳腐な内容である。つまり、彼は八つ当たりでメディア的な議論をしているだけで何の新しいアイデアもなければ、斬新な切り口もない。誰もがわかっていることなのだ。

それが実現されていないということは、出来ない、ということなのだ。

理論的に出来ても政治的に出来ないのであれば、それは出来ない、ということなのだ。政治的プロセスを直接に経なければならない財政政策の無力性は、あるいは金融政策に対する相対的な無力性は、政治的なプロセスから直接的には自由である中央銀行により支配される金融政策に比べ顕著である。

財政政策も金融政策も緊急避難的な危機対応としては重要だ。そして、ケインズは財政政策の有効性と、実は金融緩和の有効性(為替は強くするだけが能じゃない)ということを世に知らしめた。

しかし、時代は進歩した。

バーナンキの大好きな大恐慌の時代は去り、それに対応したケインズの主張も時代に、新しい経済構造に合わなくなった。

しかも、リーマンショック後(実はパリバショックから)、金融政策をフルスロットルにし、それで崩壊危機を回避し、立ち直りに財政政策も全開にした。そのつけが今の財政危機であり、もう財政には選択の余地が限られており、出動の規模によるマクロ的な力はない。だからみなもう一度金融政策、金融市場や金融機関、広い意味での金融の機能不全を解消する危機管理の金融政策でなく、単なる金融市場を持ち上げるだけの量的緩和を求めているのだ。

それにもかかわらずバーナンキは財政政策を ”To the fullest extent possible”で財政政策を効果的に行え、と主張して(愚痴って)いる。

無理だ。

それはマクロ的にも無理だし、バーナンキがなんとなくミクロ的により経済に役に立つ効果的な財政政策をしてくれと愚痴っても、ミクロ的な財政政策も難しいのだ。日本でも米国でもそれができればとっくにしている。

ここが実はバーナンキ愚痴りスピーチの唯一の学問的意義だ。

つまり、政策はマクロからミクロへ。需要サイドからサプライサイドへ。政策の焦点は移っているということだ。

ここを議論する必要がある。