理解の難しい「ドジョウの習性」

北村 隆司

落ち目とは言え、世界第3の経済大国である日本が、毎年のように首相を変える政治機能不全状態は、世界的にも困った問題だと言うのが、野田新首相の誕生を迎えた多くの海外マスコミの反応であった。

中には「偉大な産業国家が、封建的な政治観で継続的に失速している」と小沢、鳩山両氏を皮肉り、一部の実力者による談合政治が続いている事を酷評した記事が有るかと思うと、「ドジョウに祝意を伝えたいが、何よりも、政権が永続きすることを願う」と締めくくった記事もあった。


その様な時に民主党幹事長に就任した興石氏の「今、私達に求められているものは、党内融和、それにつきる」と第一声には呆れてものが言えない。どたばた劇が続く日本に呆れたのか、米国の国務省報道官が、ここ数年で何人目の首相になるのか「知らない」と苦笑しながら舌を出したと言う記者会見記事が流れた。その後、日本の短命政権を揶揄したわけではないと弁解したが、日本の短命政権が日本の専売特許かと言えば、必ずしもそうではない。

すぐ倒れる内閣、すぐ変わる首相と言う点は戦後のイタリアも同じで、戦後のおなじ期間に、日本より7人も多い37人の首相を大量生産した歴史を持つ。中でも、1992年から2000年の8年弱の間に7人の首相を生んだ辺りは、最近の日本とそっくりだ。

短命政権に限らす、全然変らない汚職と隠蔽体質、居座り続ける与党、政党第一・国民第二の政治、ヤクザ(マフィア)の存在など、イタリアと日本の政治が瓜二つの時代は永く続いた。
処がそのイタリアも、EU加盟後の政治はすっかり変った。汚職政治家の徹底摘発、マフィアの撲滅運動、戦後万年与党だったキリスト教民主党は分裂縮小し、新たな右派勢力が誕生し、イタリア共産党は左翼民主党へと進化し、政権政党にまで進展した。何事も遅い事で悪名の高かったイタリア政治も、最近の財政危機に対する処置では、南欧各国では最も早かった。

EU加盟を契機にイタリア政治が急速に近代化された事実を見ると、日本の政治経済の国際化が急務である事が明白である。情けないことに、日本は相も変わらずの既得権保護の悪習から一歩も進まない。
国家のイメージ作りに果たすマスコミの力は大きい。日本の国際的な地位の低下と共に、日本に派遣される特派員の質も低下し、政局中心の日本のマスコミ報道をそのまま翻訳するか、事情通と称したゴシップに近い報道が増え、日本のイメージを低下させて来た。これ等の事が国務省の報道官の失笑に繋がった様に思える。不愉快であるが、これが現実である。

「ドジョウ哲学」を持つ野田新首相の「純日本的な味わい」を正確に外国に伝える事は至難の業である。スタンドプレーを避け、地味ではあるが他人の嫌う環境も厭わずひたすら目標実現に努力する姿を、ドジョウに重ねたのであろうが、ドジョウを見た事もない人が殆どの外国人に、相田ゆきをの世界を理解させる事は不可能に近い。

ドジョウを字引で牽くと「個体差はあるが、危険を察知した際や水温などの条件によって水底の砂や泥に潜る習性がある」とある。これでは、外人が従来の日本政治に感じていたイメージを再確認するような物だ。

新首相には、復興など政策課題が山積しており、その処理の仕方には世界の耳目が集っている。日本向けの「ドジョウ哲学」もさることながら、内外に向って早急に政策の明示をして欲しい。その際、小沢流のばら撒きと既得権保護策はご法度で、マニフェストの見直しは避けられない。
日本の再興には、3次補正の編成でハードルになる10兆円規模ともされる財源の確保と同時に「成長なくして財政再建なし、財政再建なくして成長なし」と訴える野田新首相にとって、企業の競争力強化には法人税減税の実現や規制の緩和は絶対に必要だが、臨時増税も選択手の一つである。だからと言って、政府の無駄を徹底的に削除しない増税に、国民が抵抗する事は間違いなく、短命政権がまた続く事になる。

私は、野田新首相の「行政改革担当相」を専任にすると言う発言に密かな期待を置いている。野田新首相が本気で公務員の身分保障を廃止し、人事院制度を廃止して、公務員の給与レベルを平均的な民間企業並に下げる決意を実行に移せば、国民も増税に反対はしまい。国民の支持が、小沢、鳩山、菅トロイカ封建体制を打破出来る唯一の方法であって、興石幹事長の「党内融和、それにつきる」と言う国民を無視した妄言に耳を傾けてはならない。

国家が必要とする改革は、公務員制度だけではない。民間企業における正社員と非正規社員の格差も大き過ぎる。この際、民間企業も正社員に対する手厚すぎる保護を薄くしても非正規社員との格差を縮小するか、非正規社員の待遇を正社員に近つけない限り、不公正と言う点では公務員制度と変らない。
野田ドジョウ内閣が「危険を察知した際や条件によって水底の砂や泥に潜る」普通のドジョウ集団ではないことを証明する事を期待するや切なるものがある。