空洞化は不可避だが、日本にとって必要な途中経過

松本 徹三

世界経済の行方は相変わらず極めて不透明で、その元凶は言うまでもなく米国とEUにある。しかし、せめてもの救いとして、発展途上国の潜在力に今ようやく脚光が当たっている。


発展途上国は一般的に政治が不安定である事も否めず、失速のリスクは常に付きまとうが、それでも色々な試行錯誤を繰り返しながら、徐々に欧米先進国との格差が少なくなっていくだろう。こうして世界経済が一体化し、均一化して行くのは、「世界経済の安定化」にも繋がるものであり、極めて望ましい事だと思う。

大きな視点で考えれば、米国やEUのような先進地域と発展途上地域の経済力の格差が時間と共に徐々に縮小していくのは理の当然だ。かつては、長い歴史を経て民主主義へと移行してきた先進諸国も、一旦国外に出ると「武力が全てを制する」という認識に立ち、「法」や「道義」はそれを正当化するために便宜的に使うに過ぎなかったが、現在は状況が異なる。

現代の資本主義経済の主要な担い手である大企業は、その活動を自国内に留める積りはさらさらなく、世界市場での利益を最大化しようとしている。そうなれば、「自国民の雇用確保や福祉」より「地球規模での経済合理性」を重視するのは当然だ。先進諸国の法体系もこれを支持する形で整備されている。

「日本で生まれた企業なら日本人の幸福(福祉)を優先的に考えるのが当然」と考えている日本人は結構多いようだが、「それで国際競争力がなくなって、その企業自体が消滅してしまってもよいのか」と問われれば、答えに詰まるだろう。「過去の蓄積のある先進国の国民は、そんなに働かなくても良い生活が出来て当たり前であり、蓄積のない途上国の人達は、いくら働いても生活は貧しいのが当たり前だ」と正面きって言える人も、世界の何処にもいないだろう。国内だけで通用する「正義」も、世界規模で考えれば「正義」に反する事になりかねない。

Twitter等でこの問題に触れると、「先進国の大企業は、発展途上国に進出して現地の人達を安い給料でこき使って搾取している」と非難する人もいるが、先進国企業の進出によって現地の人達の生活水準が徐々に上がっていっているのも事実だ。(因みに、本当に生活に困窮したことのある人なら、「安い給料でも仕事がないよりはマシ」という考えが身にしみついていて、Twitterでもこんな抽象的な議論はしないと思う。先ずは仕事があれば、それをベースに徐々に条件を改善してくチャンスは幾らでもある。)

多くのアメリカの企業が、電話やメールによるカストマーサービスを、はるかにコストの安いインド企業に委託している事はよく知られており、多くの米国人が「職を奪われた」としてこれを難詰している。しかし、これは、「米国の富が徐々にインドに流失し、世界の貧富の差が若干なりとも平準化していっている」事を意味するから、「経済合理性」の観点からのみならず、「人種的偏見排除」の観点からも、世界レベルで考えるなら「極めて望ましい事」だと言わざるを得ない。

しかし、マクロの視点に立てばそういう事は言えても、目先の事になると問題はそう簡単ではない。選挙民は、刹那的には「社会正義」や「助け合い精神」を支持して、それを具現するような政策に喝采を送る事はあっても、突き詰めていけば、自らの経済的利害を守ってくれる候補者に投票する。自らの経済状況が比較的に安定している場合は、他人(例えば外国人労働者)に対しても寛容になれるが、それが厳しくなれば、最早なりふり構っておられず、自分の生活基盤を脅かすものの全てが憎しみの対象になる。

第一次世界大戦のあと、無傷で産業基盤を拡充させた米国は未曾有の好況を謳歌したが、これが国民の投機熱を煽り、「全ての投機はいつかは破綻する」という原則通り、1929年の株式大暴落をもたらした。そして、米国で起こった金融恐慌は瞬く間に世界中に広がり、世界各国の経済を奈落の底に突き落とした。

その後米国は、政府の財政出動(ニューディール政策など)で回復を目論むが、結局は第二次世界大戦の勃発まで、はかばかしい景気の回復はもたらし得なかった。しかし、それよりも痛恨だったのは、その間、世界経済の回復を主導するべき立場にあった米国が、既に大戦で疲弊していた欧州諸国、とりわけ未曾有の経済危機にあったドイツを助けようともせず、モンロー主義の旗印の下に、米国一国のみの回復に注力するかのような姿勢をとり続けた事だ。(これに倣い、英国もコモンウェルス諸国を結束させてブロック経済化を計り、日本などに「やはり自らの植民地を拡大するしかない」と考えさせるきっかけを作った。)

その一方で、史上初の共産主義国家となったソ連の計画経済は順調に滑り出していたから、経済破綻に近い状態だったドイツでは、自らの党を「国家社会主義ドイツ労働者党」と銘打ったヒットラーが熱狂的な支持を受ける素地が出来ていた。ヒットラーは大衆の鬱積した不満を煽る形で、外国人、特に経済力のあるユダヤ人を排斥する一方、国家主導で軍需産業を中心とする重化学工業を育成、その辻褄を「周辺諸国に侵攻する」事で合わせようとした。こうして、多くの人達に想像を絶する災厄をもたらした第二次世界大戦が始まってしまったのだ。

この様な歴史を顧みながら、翻って現在の欧州の状況を見ると、少し不安を感じざるを得ない。英国の暴動、フランスでの極右政党「国民戦線」の台頭、ドイツで芽生えつつあるEU解体への秘かな願望、ノルウェーの銃乱射事件、等々には、かつてのファシズムを生み出した社会の底辺での不満の鬱積が見え隠れする。問題の根源は明らかに経済の停滞がもたらす雇用不安であり、その矛先は、安い賃金で職を奪っていく移民や出稼ぎ労働者に向けられている。

自国経済が比較的好調なドイツでは、「何故ギリシャやポルトガルを自分達が助け続けなければならないのか」という疑念が生じているのは明らかなようだ。ギリシャやポルトガルだけなら、最悪時は「これ等の国をEUから切り離す」という荒療治も出来ないではないが、経済危機がスペイン、イタリアにまで波及すると、もうEU自体を解体するしか手がなくなる。この意味で、私はユーロ危機の方がドル危機より危険度が高いと考えている。

米国の問題は、要するに、「長年の病弊がいよいよ最終段階に来た」という事だと思う。冷戦に勝利し、米国による一極支配体制が一時的に確立したわけだが、米国はその力を賢明に利用する術を知らなかった。第一次世界大戦直後の一国のみの未曾有の好況が、大衆の投機熱を煽って大恐慌をもたらせてしまったように、市場原理主義の行き過ぎと金融資本の強欲さを制御出来なかった米国は、リーマンショックに代表される世界規模の金融危機を防ぎえず、その一方で、自国の財政危機の克服に何時までも目途が立たないままに、遂に米国債が格下げされる事態まで招いた。

しかし、米国の場合は、EUと異なり一国の問題だから、問題は遠からず克服できると私は思っている。

「米国史上初の黒人大統領」となって以来、多くの演説で米国人のみならず全世界の多くの人々を魅了してきたオバマ大統領も、中間選挙での敗北で「ねじれ現象」が生じて以来は、にっちもさっちも行かない状況に追い込まれつつある。政策上の大きな目玉だった「医療保険制度改革」は保守派の断固たる反対の前に立ち往生しているし、「連邦債務の上限引き上げ」さえもが目途が立たない。しかし、例えそのような状況下でも、日本と異なり完全な三権分立体制下にある米国では、大統領が本来の理想の追求を断念せざるを得なくなったからと言っても、議会の支持を受ける範囲内での行政を粛々と行うことを妨げるものではない。

さて、問題は日本だ。現実に日本人として日本に住み、子供達や孫達の将来が気にかかる私としては、先ずは日本のことを真っ先に考えないわけにはいかない。

諸外国の日本観は、ここへ来てほぼ固まってきているように私には思える。日本は常軌を逸した財政赤字を抱えているが、個人の貯蓄率が極めて高く、国債の殆ども国内で消化されているので、「世界経済にとっては差し迫った危機はない」と彼等は見てきた筈だ。(だから、欧米の金融機関は「円買いを継続してもしばらくは問題はない」と考え、危機的な状態にあるドルやユーロの退避先として円を選んできたのだ。)

「政府の無策故に、今後とも日本経済は少しずつ悪くなっていくだろうが、心の優しい日本国民は慌てず騒がない。やがて最後の審判の日が来ると、日本国債は暴落、金融恐慌になるが、これで大損害を蒙るのは、主として営々として貯蓄をしてきた日本人であり、それまでに円を手仕舞ってしまっているだろう外国人の損害は軽微だろう」と、彼等は考えているに違いない。

しかし、大災害と原発事故は、常に「黄信号」だった日本の状態を一気に「赤信号」にした。そして、この「赤信号」は、先ずは日本企業の背中を押すだろう。

1)本来消費税が担うべき負担も背負わされている「高率の法人税」
2)土地代、電気代を初めとする、極めて割高な「インフラコスト」
3)遂に雇用関係にまで及んだ「万事に『自由競争抑制』的な諸規制」
4)農業保護を優先させるが故の「国際的な自由貿易体制(TPP等)構築の遅れ」
5)政府の無策が助長する「円高の進行」
6)教育政策の停滞による全般的な「人材の能力低下」

「黄信号」のベースだった上記の諸項目に加えて、「電力不足」や「新たな災害や放射能汚染の不安」「忍び寄る金融不安の可能性」まで考えなければならないとなると、流石に各企業とも海外立地を真剣に検討せざるを得ないだろう。企業の海外立地が促進されると、国内産業の空洞化が起こり、唯でさえ十分でない雇用は更に縮小される。税収は更に縮小し、財政危機はより深刻な事態を迎える。

しかし、私は、これは何れにせよ越えていかなければならない事だと思っている。これを避けようとすれば、結局はみんな一緒に「茹で蛙」になり、最後の審判の日を迎える事になってしまう。

これまで、日本企業の海外進出意欲はあまりに低すぎた。大企業の経営者の多くがチャレンジ精神を失い、「分かり易く、従ってより安全な国内市場」に引きこもる傾向があった。(中には、「出来れば政府の『規制』で『既得権益』を守って貰う」事に期待するような人達さえもいた。)海外市場で実際に戦い、自らの競争力の低下を目の当たりにしなければ、生産拠点の海外立地の必要性にも目が向かない。そうなると、世界を舞台に活躍出来る人材の育成にも熱がこもらず、知らない間に「ふと周りを見ると、みんな内弁慶の人達ばかり」という状態を作ってしまった。

海外進出、海外立地が大規模に進み、実際に日本産業の空洞化が起こると、日本の政治家も一般大衆も、初めて問題の深刻さに気がつくだろう。それに気がついた瞬間から、多くの人達が大きな苦しみに耐えなければならなくなるが、それでも、「最後の審判の日まで安逸をむさぼり、一挙に奈落の底に突き落とされる」よりはマシだと思う。日本人は本質的に粘り強く勤勉だから、早く問題に気がつけば必ず困難を克服出来る筈だ。

それよりも、我々が今最も警戒しなければならないのは、耐え切れなくなった米国や欧州の主要国が、新たな保護主義、ブロック経済へと突き進むことだ。(こうなれば、第二次世界大戦前夜の悪夢が再来しないともいえない。)そして、防衛面では、米国が「アジアでの軍事的なプレゼンスの維持」を断念して、中国のアジアにおける覇権を認めてしまうことだ。(米国政府は、財政立直しの為に軍事費削減の誘惑に駆られる一方で、中国の米国債売却を恐れるだろうから、そういう事態が起こらないとはいえない。)

そうなると、「実質的に中国の属国に近い立場になる」事を日本人が許容出来ない限りは、日本は新たな軍事費の負担にも耐えなければならなくなる。しかし、日本の財政は、最早これ以上の負担には耐えられない。「先ずは日本の事を考えなければならない」と言っても、やはり米国やEUの指導者の動きには目が離せない理由の一つがここにある。