「高福祉・高負担」という幻想

池田 信夫

與那覇さんのコメントに、簡単にお答えしておきます。中間集団による保護を「国家による個人への直接給付へと変更する」負の所得税(あるいはベーシック・インカム)を「東アジアで実現する上では、西洋世界とは異なる留意が必要になる」というのはおっしゃる通りです。


フリードマンの論理はきわめて単純で、所得再分配の問題は所得だけなのだから、老人とか地方に住んでいるとか農業をやっているとかいう理由で所得を分配するのはナンセンスだ、ということです。これに対してはリバタリアン過激派から「国家に依存する家父長主義だ」という批判もありますが、もっと重要なのはコミュニタリアンからの批判です。

「負荷なき自己」を認めないサンデルのような立場からみれば、国家が「裸の個人」に金だけ出し、コミュニティが崩壊する社会は悪夢でしょう。むしろ個人を支えるコミュニティの厚みを守り、非金銭的なバックアップを強めることが重要だ、という彼の指摘は、アメリカではその通りだと思います。

しかし日本の直面している問題は違います。一般会計の債務1000兆円に加えて年金の積み立て不足(潜在的な税負担)が800兆円もある天文学的な政府債務を削減するには、肥大化した中間集団の求めるままにアドホックに積み上げてきた社会保障をいったん清算することは、おそらく避けられない。その後に社会保障をどう再構築するかは議論が必要ですが、行政改革を中心とする中間集団の整理は不可欠だと思います。

もちろん、これには非常に大きな政治的抵抗がともないます。それで日本経済がよみがえる保証もない。中間集団を守りながらゆっくり「安楽死」するのも有力な(もしかすると日本では唯一可能な)選択肢でしょう。私が與那覇さんの引用した元記事で「グローバル化を拒否しているために企業収益も格差も小さい日本が、一つのロールモデルになる可能性もあろう」と書いたのもそういう意味です。

しかしそれは日本では「高福祉・高負担」ではなく、高齢者の高福祉と若者の高負担で将来世代が加速度的に貧しくなる世界です。今後の政治の大きなテーマは、これをどこまで容認するかという世代間闘争でしょう。『もし小泉進次郎がフリードマンの「資本主義と自由」を読んだら』で、30歳の小泉氏を主人公にしたのもそういう意味です。彼と同世代の與那覇さんがそれを認めてくれるなら、私は文句ないのですが・・・