主体的思考の欠如が招く不幸

2011年12月10日 22:45

内田樹氏の「下流志向、学ばない子供たち、働かない若者たち」(講談社)に、女子大(神戸女学院大学)で生徒がよく読んでいるファション雑誌の一ページをコピーして配り、意味の分からない言葉にマーカーで印を付けさせたら、マーカーだらけになったというエピソードが書かれている。自分が理解できない事柄を理解せずに放置し、世の中が意味の分からないもので溢れていても気に掛からないということらしい。彼女たちは、穴あきチーズのように欠損した世界を見ていることになる。薄々感じていた危惧が現実化していることに衝撃を受けた。 


氾濫する情報と主体的思考の放棄

インターネットなどのテクノロジーにより、我々が接することのできる情報量は飛躍的に増大している。情報機器の記憶容量の増大から、保存していつでも取り出せる情報量も飛躍的に増大した。

しかし、我々はそういった情報について主体的に考え、批判したり、自分の道具として使いこなすといったことを怠っているのではないだろうか。

情報の氾濫という環境下で、簡単に得られる情報を脳内に格納することで、理解した、と錯覚しているのが原因ではないか、と私には思われる。言い換えれば、これは自分が理解していないことを理解できない、という無理解の無理解が起きているのではないか。 

主体的思考の欠如の引き起こす問題

我々の周囲に氾濫している情報は必ずしも正確なものではなく、多くの誤りや、一種の煽動(デマゴーグ)を含んでいるが、受け手の側の情報のフィルタリングの体制は整っていない。その上、情報を分析し、体系化する能力を多くの人たちは持っていない。このことの引き起こす問題は深刻である。

一例として放射線の人体への影響を考えよう。福島原発の事故以来、日本国民は、放射線被爆について情報を集めることに熱心になった。これは当然のことである。しかし、放射能の危険性について、単なる情報収集を超えて主体的に考察している国民はどれだけいるのだろう。

放射線が遺伝子を破壊するのは事実である。しかし、その危険性は被爆量に線形に依存するものではないという事実を知る人は少ないに違いない。遺伝子には自己修復作用があり、閾値以下の被爆では発がん性の増加は確認されていないことは、多くの国民が知らないに違いない(具体的には年間100ミリシーベルト以下の低線量被爆の健康への影響は確認されていない)。それどころか、遺伝子が活性酸素でも破壊されるというありふれた事実を知らない国民も多いに違いない。

放射線被爆の危険性について私は判断する立場にはないが、もしこのような貧困な理解のまま、巨額の税金が除染に使われるとすれば、国民全体にとって不幸であることは間違いない。

このように国民が主体的に考えることなく、ランダムに収集した一次情報(しかも所謂デマも多い情報)を「自分の理解」として行動することは非常に危険なことのように思われる。

教育改革の必要性

こういった状況を改善するには教育を改革するしかない。しかし状況は厳しく近年、多くの学生が主体的に考察することを放棄したり忌避する傾向にあることは間違いない。こういった知性の退化や、学びからの逃走と情報の氾濫の関係は、はっきりしないが、単に社会の風潮というだけでは片付けられない根深い問題である。

この問題を解決するには、初等教育から「なぜ?」という問いかけを常に行う習慣を身に付けさせる以外にない。また知識を系統化する訓練のために、長い文章を書かせる訓練の必要がある。

こういった流れを作るには、まず大学入試においてマークシートを廃止し、長文記述式に変更するといったことが求められるだろう。

画像の説明文
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