イノベーションは始まっている。 --- 宮崎圭輔

アゴラ編集部

わが国でイノベーションは興るのか? 多くの識者が議論している。今の若者のバイタリティー・学力では無謀やら先は暗いとも言われている。しかし私は、もうイノベーションは始まっているのではないかと思っている。

イノベーションを語る前に現状の『学生』と『大学』の話をしたい。
近頃は大学生の基礎学力低下が懸念されていようだ。逆にバブル時代のように遊びほうけていないから、今の学生の方がマシだという意見もある。受験戦争時のバブル世代と比較して『ゆとり世代』の基礎学力自体は低いという意見もある。少し真偽は分からない。


ただ、今度は学生ではなく、大学側を見てみると少子化時代の生き残り戦略として定員数確保の為に入試回数を増やし、一般入試枠を逆に狭くすることで、見かけの難易度水準を水増ししている状態だろう。これは、特に私学で顕著かもしれない。

結局の所、若者の学力低下を懸念する議論も、この大学側の水増し工作の部分に触れないとフェアではない。もちろん水増し工作だけが原因ではないだろうが、この自身の生き残りビジネスに触れずに学生を一方的に糾弾するのは間違いなくフェアではない気がする。もちろん大学側も少子化時代の苦肉の策であることは理解している。

学力低下の原因のもう1つは『ゆとり教育』よりも、好成績⇔良い学校⇔大手企業という家父長的な既存レールモデルが崩れ、従来の『お勉強』へのモチベーションが低下しているのが原因かもしれない。これは教員・大人の言うことに説得力が無くなったのとパラレルだろう。多くの大人が新しい生き方やアドバンテージを提示できていない可能性がある。若者も子供もそういったことには素肌のレベルで敏感である。本能的に何か不毛な空気に気づいているのだとすれば学力低下は時代の象徴的な現象だと言える。

こういったいろいろな原因が複数重なり事実、学生層の『学力』が低下しているのだと私は考えている。もちろんいつの時代もそうであるように、病的なくらい優秀な層も沢山いるだろうが。

私が大学受験した時代は10年前、そのときは『バイオ』の時代だった。厳密に言うと『これからはバイオの時代だ』と言われていた時代だった。私はバイオ系学科に進学できる東京の国立大を滑って、そこでバイオへの夢は絶ったが、当時、偏差値60~40までの地方私大でも試験管を片手に持った白衣の人が写っている『バイオで君も研究者』という詐欺のようなフレーズのパンフレットを大量に配布していた。結局、その後のバイオブームの帰結を私は知らない。ただ某バイオ大学に進んでPhDを取った友人2人の内1人は、今、ニトリという家具屋でバイトをしている。もう1人は首を吊って汚物を流して死んだ。2人ともパンフレットのようにはならなかった。詐欺師の理屈なら、騙される方が悪いと言うことだろう。自業自得、無知薄弱と。それにたいして、もう私は何も言うつもりはない。

その後もそして今も『カウンセリング〇〇』『最先端〇〇』みたいな、見ているだけで楽しくなるエンタメ系の学科が乱設された。そしてそんな大学で『若者の学力が』と言っている。近頃は『イノベーション〇〇』という研究室までできているようだ。イノベーション史を追い、経済学的な視点で分析することは凄く重要で期待しているが、大学がまたバイオ時代同様に『イノベ学科に入れば、君もイノベが起せる』的なフレーズで客寄せをしないか少し心配である。もっと言うと大戦後に、かつてのイノベーター、自転車にエンジンをつけて世界と戦った男の魂までも、また、またまた大学ビジネスの『ネタ』と化してしまうのにはなんだか私は嫌なのだ。

ここからは私の『妄想』を語りたい。
これはイノベ研究室みたいなものに入ろうとしている、何処かでアゴラを読んでいる『君』に語るのだ。私は君に何の根拠もない純度100%の『妄想』を語るのだ。だから聞いて欲しい。間違いなく純度100%だ。それは私が保証する。

私はこう考えている。おそらくすでにイノベーションは、大学のイノベーション研究室の教員などが知らないところで、まったく思いもよらない層が確実に始めていると。彼らは、日本企業の村的な家父長構造からエクソダス、いや スポイルされた状態で、それでも希望を捨てずに、そして楽しみ、自由に連携しながら、緊張と興奮の中で、SNSで出会いスカイプで会議するような形で水面下の企画を進めているだろう。そういったボルボックスが群体生物として連結するような、個人と個人が自由に繋がるプロジェクトが水面下で数百、数千の単位で動いているはずだ。国内外の地理的制約を越えて彼らは自由に繋がっているだろう。そしてそのほとんどの企画が失敗に終わり消えるが、その内のいくつかは今後、確実に時代の仕組みを大きく変えるようなパラダイムシフトを起こすだろう。

私が思うに、イノベーションに一番重要なのは、抑圧と自由空間である。既存価値観の維持が限界に達して、新しい価値を誰も提示できない。それなのに既存価値を強いられ続けている。そんな限界の抑圧状態で、価値に疑問を持つ者同士が自由に出会い、コミュニケーションする場が重要なのだ。今ではSNSがその場となるに違いない。

私が冒頭で『教育』に触れたのは意図がある。大学教育がわが国で一番閉鎖的で停滞していると考えているからだ。だからその部分に問い、疑問を持つ若者が、 きっと教育サービス事業にパラダイムシフトを起こすようなイノベーションを起こすはずだ。これは火を見るより確実なことで、一ミリも疑う必要はない。今の若者は自信を持つべきだ。

今日、アゴラに寄稿しようと思ったのは、昨日、若年層の自殺率が急激に増えているという記事を読んだからである。酷い時代だ、腹が立つ。こんなことの放置が許されるわけがない。しかしこんな酷い時代でも希望を捨ててはいけないと私は思っている。人は、いつの時代も 人は、どんなに酷い時代でも創造性と可能性の花を咲かせてきた。かつて『バイオ学科』のパンフレットを配り『学力低下が・・』と言っているような腐ったエスタブリッシュメントが何と言おうが君は、その真実を信じるべきだ。いやそんな時代だからこそ価値観のフレーム転換を迫られるのだろう。そうでないと圧殺されて、生きていけないからだ。だから今後は自分より下の世代から、価値観に問いを持ちパラダイムシフトを起こすような『天才』が多く現れると確信している。間違いなく君もその1人だ。

私は偉人伝を読むのが趣味である。彼らの軌跡を読んでいると、天才である彼らの多くが目を覆いたくなるような酷い時代に生まれていることが分かる。人は、いや個人は、大なり小なりいつも時代の中で社会の矛盾に抑圧され葛藤してきたのかもしれない。そんな中でも、いや、そんな状態であるからこそ創造性の花を咲かせてきたのがきっとイノベーションなのだ。だから『最近の若者は~』と語る人にはこう言いたい、『イノベーションを舐めるな、イノベーションは始まっている』と。形のないものに形を与えるのは並大抵の作業ではない、でも、その過酷な試みの原動力は『意思』そのものなのだから。

宮崎圭輔
個人事業主

────────────────────────────────────