「一流」と「上流」を混同した教育が、間違いの始まり! 

北村 隆司

アゴラに載ったとにかく一流大学という弊害子供の権利の視点がまったく抜けている教育基本条例批判を読んで、日本の教育を改めて考えてみた。


殆どの先進国家では、法的身分としての上流階級はなくなったが、「事大主義思想」の発祥の地である東北アジアでは、強いもの、富める者への憧れから、支配的な風潮に迎合する向きがまだまだ強い。特に日本と韓国にその傾向が顕著である。

職業・学歴・財産など権力や金融的利害に有利なエリートに対する憧れが強い日本では、子供の上昇志向に期待をかける親が、他人を押しのけても上に立つ子供を良しとする。

こうして「一流」と「上流」を混同し、「大人」と「子供」の視点を取り違えた親のエゴが、日本の教育を狂わせた様に思う。

「機会平等」の実現に苦労して来た米国の教育は、「一流」を目指せとは言っても「上流」を目指せとは言わない。一定のレベルを目指す「一流」と、他人との比較で成り立つ「上流」とでは、似て非なるものがある。一流志向は、独立の気概のある「個人主義」を育て、上流志向はエゴの塊である「己人主義」を生む。

「夢」を大切にする米国では、幼稚園や小学校の先生が子供の「長所」を見つけるために使う時間の永さには感心する。

一方、世間的な成功を目指す日本の教育は、「夢」を現実的でないとして遠ざけ、「他人の成功モデル」を押しつける傾向が強い。こうした押し付け教育は「短所の矯正」と「出世主義」に偏り、「塾」の異常な流行や、子供の時代を経験しない「変な大人」を作るなど、日本社会をいびつにしつつある。

社会に残した貢献で人生を測るアメリカと肩書き重視の日本の違いは、新聞の死亡記事を比べると良く判る。日本の死亡記事が、肩書きと履歴が中心であるのに対し、米国の死亡記事は、故人が社会に残した足跡を中心に書かれている。

社会に認められる事が嬉しい事は、何処の国でも同じであるが、自分の人生が刻んだ足跡なら兎も角、他人から与えられた肩書きだけで人生を評価されるとしたら、寂し過ぎはしないだろうか?

私が引退した時に、ある部下が「節目帳」と言う日記帳の様なものを贈ってくれた。

その冊子は「“節目帳”は遺言状ではありません。自分の人生を正面から見直し、自分がどんな人間なのかを知り、明日からの自分がどうありたいかをイメージする ”あなた自身の為のノート“ なのです」と言う注意書きから始まっていた。

我が人生を「節目帳」に書き込み始めて気が付いた事は、あれだけ時間を懸けて学校で学んだ事が、人生の大切な項目に殆ど関係ないと言う事であった。日本の教育の価値観は、どう見ても狂っている。

「栴檀は双葉より芳し」と言う。日本も、子供の特徴と夢を活かせる教育に切り替え、現実的な野心より、大志を抱ける世の中にする事が大人の義務である。

その為には、大人が事大主義的な価値観を子供に強制しない事と、分列行進の様な画一的教育しか頭にない、文科省、文教族、日教組、PTA等の既得権益者から、子供を解放する事から始めるしか道はない。

日本には「一流教育」も「子供の為の教育」もない事を確認してくれた、冒頭のアゴラの記事であった。