重層的な構造を持つ「come out」と複合化する主客について

青木 勇気

先日、下北沢にある短編映画に特化したミニシアターで『Coming out story ~カミングアウトストーリー~』という映画を観た。理由は、友人が監督した映画だったからだ。事前にどんな映画なのか、そもそもどういう背景で監督をするに至ったのかという部分に触れていたため、自然と期待は高まった。

「Coming out story」は、2010年度の日本映画学校の卒業製作として作られ、その年の最優秀監督に贈られる「今村昌平賞」を受賞した。しかし、梅沢監督は映画の持つ「問い」に未だ、確固たる回答を出していないと感じ、卒業後、ひとり再編集を開始する。完成した本作品は、「第20回東京国際レズビアン&ゲイ映画祭」で上映されるなど、多くの反響を呼んだ。これは、「男」と「女」のあいだを揺れながら、心の底から湧き出る「わたし」という声を発せる場所を探し続ける人々の魂の記録である。

※『Coming out story ~カミングアウトストーリー~』公式サイトより引用

タブーへの挑戦、性と生をテーマにしたリアリティの追求という観点からも、この作品は評価されるべきだと思う。だが、ここは映画評論をする場ではないので、ストーリーについての批評ではなく、この映画の構造の特異性、そして複合化する主体と客体のあり方にフォーカスしたい。


まず、構造の特異性について説明しよう。乱暴に言うと、映画は監督と製作スタッフと演者によってつくられ、基本的にスクリーンには演者しか出てこないものである。だが、この映画には三者全てが登場する。もちろん、これ自体はドキュメンタリー映画において珍しいことではない。では、何が特異なのか。それは、『Coming out story~カミングアウトストーリー~』というタイトル通り、「come out」がドライブしていき重層的な構造を形作るからである。

主人公の土肥いつきさんが「性別適合手術(SRS)」を受ける決意をしたところから物語は始める。この方は実在し、長い年月をかけて“女性”の体を手に入れることを望んだことを「come out」している。これが、物語の中軸を担う一つ目の「come out」である。続いて、二つ目は監督自身の「come out」。そして、それに呼応するかのような製作スタッフの「come out」だ。中身についての解説や感想は、映画ファンのレビューや映画評論家に任せたいと思う。私が注目したのは、この重層的な構造を持つ「come out」と、ここから派生する主体・客体の複合化である。

形式的には監督の目線、一人称の語りによってストーリーは動かされているものの、彼は映画を外側から記録する者ではなく、「come out」する当事者でもある。つまりは、主観的かつ客観的な視点を自らに課すことになるのだ。製作スタッフも同様で、映画の途中から「come out」する当事者となり、自身もインタビューされ、観られる側の役割を担うこととなる。ジェンダーが交錯するストーリーの中で、関わる人間の主客もまた複合化していくのだ。

そしてさらに、このことを通して、観客はいつの間にかに、主人公の土肥いつきさんを主人公ではなく、ストーリーの一部と見なすようになる。「わたし」が、土肥いつきさんによってのみ使われるものではないこと、「わたしとあなた」と分けられたものではないことを理解するのだ。作品のキーワードである「トランスジェンダー」は、映画における主体・客体の境界線そのものを超えることのメタファーとして見事に機能している。

たとえば、『ニュー・シネマ・パラダイス』は、主人公の追憶を交えながら映画の中でもうひとつの映画を作り上げ、観る者を引き込んでゆく不朽の名作であるが、『Coming out story ~カミングアウトストーリー~』もまた、重層的な構造を持ち、観る者の視点を変え、あっち側とこっち側の隔たりを取り除くことのできる希有な作品であると私は思う。

こんな風に名作を引き合いに出したりすると、彼から「恥ずかしいからやめてくれ」とクレームが入りそうだが、いずれにせよ、ひとりの映画ファンとして、そして旧友として梅沢圭監督の今後に注目したい。

青木 勇気
@totti81