日本国債バブル(1)

小幡 績

日本国債である。日本国債がバブルだとすると、なぜ空売りを仕掛けられないのか。そもそもバブルなのか


バブルの定義は一般的に二通りあり、一つはファンダメンタルズよりも明らかに割高になり、それが一定期間持続する、というものであり、これをもう少し狭くすると、明らかに割高、というものを、持続不可能な水準まで上昇すること、と置き換えることになる。この延長線上に、二番目の定義があり、バブルとは、その後、崩壊するもの、ということになる。

後者の定義となれば、定義上、崩壊するまではバブルと確定しないのであるから、バブルの価格上昇局面ではそれがバブルとは決まらない。これを、バブルの最中は誰もバブルとわからないのだから、という風に使うことが多いが、これは間違っていて、定義として確定しないが、バブルの最中に、その中にいるほとんどのプレイヤーはバブルであると気づいているのである。むしろ、それがバブルであるから、ファンダメンタルズなどから行くと割高だが、バブルだからまだまだ上がるだろうと思って投資するのである。

ここを厳密に定義すると、バブルとは、持続不可能な水準まで上昇する、あるいは上昇し続けるが、それが持続不可能で、いつか崩壊すると思われているが、いつ崩壊するかわからない状態、これがバブルの正確で、実態を踏まえた定義である。

あたりまえの話のようだが、定義上は一つの大きな進歩(飛躍)があり、バブルは崩壊する前からバブルなのである。暴落して初めて事後的に、初めてバブルとわかるわけでもないし、決まるわけでもない、のである。

この違いは大きく、定義が実態を反映していないから、世間がバブルを得体が知れず、誰にもわからないもの、とりわけ最中にはわからず、何ともしがたいモノ、と思ってしまうのである。だから、一般的な定義は罪深い定義なのである。

しかし、実はもっと大きな飛躍がある。

それは、崩壊しなくてもバブル、なのである。

崩壊しないバブル。

これは新しく、常識に反する。
崩壊しないバブルがあり得るとどうなるか。それをバブルとは呼ばない、という考え方が一つにある。崩壊するからバブル。

しかし、ここで、私の独自の定義に基づくバブルを考えよう。まだ崩壊していないが、いつかは崩壊すると思われていて、ただし、それがいつかはわからないが、今は明らかにバブル、という状態を考えよう。定義の是非は置いておいて、このような状況では何が起こるか。

わからない。

これだけ振っておいて、わからない、もないだろう、と言うだろうが、わからない、というのがポイントなのである。

ここでおかしい、という反論がありうるかもしれない。なぜなら、いつかは崩壊すると思われていて、ということは崩壊するのではないか。だから、わかる、のではないか。

それが大きな誤りであり、経済学が最も罪深い点なのである。犯人は、合理的期待仮説である。将来は確定しないが、期待は合理的、というものである。これが経済学を最終的におかしくし、罪深くさせた。しかも、それは数学的には、それまでよりも遙かに精緻であったため、かっこよく、知的に見えた。だから、大流行し、きちんとしたマイクロファウンデーション基づかない、マクロ経済学はくずと見なされた。それはいいのだが、きちんとミクロとマクロの理論を作り、かつ、それを完成させるとなると(ここがポイントであり、誤りの原因である。罪深い)、合理的期待仮説を持ってこないと、ミクロとマクロが整合的で、かつ閉じる、ということが不可能になってしまう。モデルは解けないと理論として成立しないから、どうしても閉じたくなる。もっともシンプルに閉じるのは、合理的期待である。ミクロとマクロ、現在と将来、ダイナミクスがあるマクロで閉じたモデルを作るのは、合理的期待を持ってこないと今のところ綺麗には解けない。

つまり、理論家の、軽罪学者が結論のある論文を書くために生み出したのが、合理的期待仮説である。

だから、これはとてつもなく、経済学の知的な地位を上げた功績の高い理論なのだが、同時に、最も現実世界を駄目にした理論である。なぜかというと、綺麗で知的で論理的説得力があり、同時に間違っているからである。

かっこわるくて間違っていれば、誰も相手にしない。しかり、論理的に破綻がなく、美しく、知的であると、間違っていても、知的な武装をした方が勝つ。それが、現代の知的社会、知的なふりをした愚かな社会なのである。

世の中は、決まらない。期待は常に外れる。それは平均的にもあっていない。だから、世の中は動くのである。

エージェントベースアプローチや、カリブレーションがはやっているのは(マクロの世界で)、その現実に気づいたからである。しかし、カリブレーションをやり始めると、それで論文になる、ということになると、経済学では、何もわからない、将来の予測はできない、問題は解けない、と認めることになる。だから、現実へのインプリケーションは弱まり、社会的な力は失っていく。

しかし、もし、経済学と軽罪学者にブランドヴァリューが残っているのであれば、まともな軽罪学者は、このブランドを利用して、政策提言をし、その提言は、経済学によらず、ただ真実を見抜く作業により確立し、あとで、経済学のお化粧をする、ことになるだろう。

さて、バブルの将来はわからない、ということは具体的にはどういうことか。

崩壊するか、崩壊しないか、まず、わからない、ということだ。

みんながいつかは崩壊する、と思っていることと、実際にその期待(予想)が実現するのは別の問題である。そして、人間の人生は有限で、将来は無限だとすると、崩壊が先送りされれば、一応の整合性も成り立つことになる。

経営でも、先送りをしたくなる一つの根拠は、先送りすれば、何かが起こってなんとかなる、という可能性は常にゼロではないからである。

たとえば、近代資本主義はバブルであり、いつかは持続可能でなくなり、資源は枯渇する、というのは、無限の未来の中では起きることではあるが、自分が生きている家には起きない、市場資産価格に織り込まれるような短期の機関には起きない、と言う言い方もできる。

崩壊しない場合とは、だれもが崩壊させなければ崩壊しないのである

崩壊する場合は、多数派が崩壊させたいと思ったときである

それが多数派になるためにはどうしたらいいか

それはきまらない。

そうなりやすい条件はあるが

同時に、将来はきまらないが、自己実現もするのである。

自己実現する、ということはきまらないということなのである
予想はできるが

仕手筋の場合、最も典型的なバブル出ないのは、この要素がないからだ。

いつ崩壊するか、誰にもわからない、これが一番狭い定義、あるいは最も典型的なバブルの定義だ。

仕手株の場合、仕手筋が終わらせようと思えば、それは終わる。そこには明確な意思があり、逆に言うと、その意思がなければ崩壊しない。もちろん、その意思は、他の投資家、フォロワーによって動かされる。フォロワーが増えれば、まだ崩壊させる必要はないし、あまり乗ってこなければ、早めに閉じようとするだろう。

典型的なバブルも、同様の場合がある。