「昭和の悲劇」は二大政党制に基づく政治主導により引き起こされた(1/2)

渡邉 斉己

丁度、一年前、NHKスペシャルで「なぜ日本人は戦争へと向かったか」という番組が放送されました。4回シリーズで、第1回「外交敗戦”孤立への道」、第2回「”巨大組織”陸軍”暴走のメカニズム」、第3回「”熱狂”はこうして作られた」、第4回「開戦・リーダーたちの迷走」でした。

第一回は、外交が政府と出先陸軍の間で二重化したこと。第二回は、エリート軍官僚集団の統制が効かなくなり暴走を繰り返したこと。第三回は、満州事変以降マスコミが国民の戦意高揚のための「宣撫機関」化したこと。第四回は、国家の大局的な視野に立つことなく、組織利害の調整に終始し、勇気ある決断を下すことができなかった日本のリーダーたちの無責任な姿が描かれていました。


確かに、このようないくつかの要因が重なって、思いもよらぬ日中・日米戦争となり国を破滅に導くことになったわけですが、最も重要な視点が抜けていると、その時私は思いました。それは、「政治家の責任」と言うことです。戦前の昭和期を通じて政治家は一体何をしていたのか。

この点に関して、民主党の小沢氏は、昨年の10月6日、自分の裁判に関する記者会見で、日本の戦前の歴史の失敗を例に出して、検察やマスコミなどを次のように批判しました。

「日本は戦前、行政官僚、軍人官僚、検察警察官僚が結託し、財界、マスコミを巻き込んで国家権力を濫用し、政党政治を破壊しました。その結果は無謀な戦争への突入と、悲惨な敗戦という悲劇でありました。教訓を忘れて今のような権力の乱用を許すならば日本は必ず同様の過ちを繰り返すに違いありません」

小沢氏はこうした認識を自分の裁判の不当性を訴えるために持ち出しているわけですが、実は、戦前において日本の政党政治を破壊し、日本を悲惨な敗戦へと導いたのは、「官僚、軍人、検察、財界、マスコミ」もさることながら、その最大の責任は政治家自身が負うべきなのです。政治主導が喧伝される今日、この事実を、今一度再認識しておく必要があります。

そこで、昭和期において、一体いかなる政治主導がなされたかについて私見を述べたいと思います。

昭和において最初に政治主導が発揮された事件は、第二次南京事件が勃発した時(1927.3.27)でした。この事件は、蒋介石の国民軍が第一次北伐の途上南京に入城した時、軍人や民衆の一部が外国の領事館や居留地などを襲撃して暴行・掠奪・破壊などを行ったものです。日本の領事館などもその時被害に遭いました。この事件の背後には、「あえて外国の干渉をさそって蒋介石を倒す共産党側の計画的策謀があったとされます。

この時、外務大臣であった幣原は、こうした背後関係を察知して、列強が蒋介石に対し最後通牒を突きつけるなどの強硬策を取れば、それは蒋介石を陥れようとしている共産党を利することになるとして、これに加わりませんでした。一方で、蒋介石に紛争の原因の一掃を進言しました。結果的には、蒋介石は上海で反共産党大粛清を断行し(四・一二クーデター)、事件の関係者を処刑しました。また、同年7月には、武漢政府も「容共政策放棄声明」を発表し、共産党との絶縁を宣言、ボロジン以下ソ連の政治・軍事顧問を解雇・追放しました。

ところが、この事件を「奇貨措くべし」として幣原外交を「国辱外交」と非難し、これを対支武力外交、在留邦人の現地保護主義へと転換しようとしたのが政友会の森恪でした。そこで幣原の対支不干渉外交を攻撃するため、「領事夫人以下あらゆる夫人が陵辱された」とか、「政府が領事館護衛の海軍軍人に丸腰を命じた」などという宣伝を行い世論を煽りました。そのため、国民の反支那感情は一挙に悪化し、幣原外交に対する不満は世論を圧するようになり、これが一つの原因となって、4月17日、若槻民政党内閣は総辞職を余儀なくされました。

この南京事件の真相については、後に政友会の田中首相が衆議院本会議において、民政党永井柳太郎氏の質問に答える形で次のように答弁しています。(s2.5.5)

「南京事件においては段々調査すると嘗て世間に流布せられた事柄には往々誤解があるということが判った。一例を挙げれば婦人の陵辱という如き事は事実ではありません。又帝国軍人の無抵抗主義ということは、これも軍人が好んでやった無抵抗ではなく、その居留民全体が要求した為、軍人は涙をのんで抵抗しなかったのである。」

つまり、政友会がなした幣原外交攻撃は虚偽の宣伝だったわけですが、結果的には、これが功を奏して民政党若槻内閣を退陣に追い込むことに成功し政権を奪取することができたのです。森恪はその政友会田中義一内閣において外務次官となり、田中首相が外務大臣を兼務したことから、実質的な外務大臣として、田中内閣の対支積極外交、居留民の現地保護政策を主導することになりました。

それは第一次山東出兵に始まり、東方会議でその対支積極外交を「国策」化し(これが「田中上奏文」という偽書を生むことになった)、第二次山東出兵では、北伐途上の国民軍と衝突事件を引き起こし、済南城を砲撃して多数の支那軍民を死傷させました(「中国側済南事件調査代表団」の報告では死者「約3,000人」という。いささか誇大な数字に思われるが正確な数字は不明)。これが中国の統一を妨害する行為と見なされ、蒋介石を敵に回すことになりました。

さらに満州の武力制圧を目指した関東軍の一部軍人による張作霖爆殺事件を誘発することになり、満州の張学良を敵に回すことになりました。こうした田中内閣の外交政策の失敗によって、それまで英国を主目標としていた中国の排外政策は一転して日本に向けられるようになったのです。これが、その後の王正廷による革命外交や、張学良による満州での反日侮日運動を生むことになりました。

*この張作霖爆殺事件を、コミンテルンあるいは張学良の謀略とする説も出ていますが、実行犯が河本大作等であったことは明白で、もし、これがこうした謀略の結果であったとすれば、河本等は彼等に騙され踊らされたわけで、恥の上塗りと言うほかありません。

ところが、こうした中国や満州における反日感情の高まりについて、これを幣原外相の対支不干渉政策の失敗に帰す意見が一般的で、支那共産党に対する認識が甘かったとか、あるいは幣原の支那に対する同情と寛容の精神が日本軍の不満や国民感情を逆なでした、などの批判がなされます。藤原雅彦氏も、「国民革命軍が日米英の居留民を襲い虐殺を行った。英米は艦砲射撃で反撃したが、日本軍だけは日支友好を唱える幣原外交の方針により日本人居留民を見捨て静観した。」(「管見盲語」)などと述べています。

しかし、国家統一期にあってナショナリズムが急進化しつつある支那との外交が慎重を要したことは自明であって、これに対して、北伐(=支那統一戦争)を妨害したと受け取られかねないような山東出兵を三度に渡って行い、さらに北伐軍を攻撃して数千名を死傷させ、あまつさえ、「第一次満州事変」を狙った張作霖爆殺事件を誘発するような外交政策が正当化できるはずもありません。

幣原は、こうした政友会の政策について、「これは畢竟、内政上の都合によって外交を左右し、党利党略のため外交を軽視した結果であると信ずる」と言っています。というのも、丁度この頃は、日本における二大政党制(民政党と政友会)が成立しつつあった時期にあって、この二大政党間の競争が、こうした「深謀遠慮を欠いた非常識な外交政策」を採らせることになったからです。この事実を、二大政党制が理想とされる今日、十分認識しておく必要があります。(つづく)