疲弊感を打破する存在としての「キュレーター」について

青木 勇気

インターネットには、圧倒的な情報がある。いつでもどこでも好きなだけ欲しいものにリーチすることができる。だが、その代わりルールやコンセプト、文脈がない。そのため、情報の発信と受信は恣意的なものとなった。

「誰かがすること」ではなく「自分ですること」になり、各人が情報を精査する「当事者」となったわけだ。そしてそれは、同じ情報であっても各人のリテラシーや受け取り方によって、正確性や有用性が変わってしまう可能性があることを意味する。3.11以降は、この「負の側面」がより浮き彫りにされたように思う。

震災当初、Twitterはライフラインとして大いに機能したが、元々は言葉尻をとらえた誤解が産まれやすく、気軽にRTされることでどんどん拡散していくツールである。情報は伝言ゲームのように編集を加えられ原型をとどめなくなってしまい、内含するリスクをこれでもかとばかりに露呈することになった。

ネット上には不安を煽るデマや噂話が飛び交い、人々は不安に駆られ、疑心暗鬼になり、さらには匿名の批判家を生み出し、個人・団体問わず攻撃的な発言を浴びせるプラットフォームと化した。手軽に個人が情報を送受信できるが故に、冷静さを失い、混沌とした空間になったのである。


 
そのような環境下では、論理性に欠け根拠のない情報であっても、ものによっては「通説化」してしまうことがある。火のないところに煙は立たない、何かを隠しているに違いないと言うかもしれないが、必ずしもそれが「事実だから」通説になるわけではない。感情を揺さぶる情報であれば、拡散することで瞬間的に「多数派」となり、通説は出来上がってしまう。真実か否かを判断するまでもなく人は不安になり、得体の知れないもの、脅威を感じるものから身を守ろうとするからだ。

他にも、著名人への個人的な好意、専門家の意見に対する盲目的な信頼、属している組織・団体における同調圧力など、人の目を曇らす要素は多々ある。こういうものが重なると、周囲に対して疑問を呈することさえ難しくなる。またさらに、国のリーダーやメディアへの不信感が高まり、求心力が低下した結果として、多くの人が正しい情報が分からず不安になり、混乱し、批判的、もしくは、頑なになってしまった。

そして今、日本は山積する課題を目の前にして、大いに疲弊している。議論ひとつをとっても「いや、そうじゃない」「こっちの方が大事だ」という反論の応酬に疲弊しているし、加えて、自分とは相容れない意見や主張に対して脊髄反射的に攻撃する人たちがいる。当然ながら、こういった一連のやり取りを見聞きする受け手にも少なからず疲弊感をもたらす。

だが、だからといって歩みを止めるわけにはいかず、数々の問題と長きにわたって向き合っていかなければならないのである。そんな中、この疲弊感を打破する存在として「キュレーター」の価値が高まっていているように思う。

キュレーターとは「学芸員」のことであるが、最近ではこれが転じてインターネットの世界で能動的に情報を収集・フィルタリングして、有益な情報として発信する役割を担う存在を指すようになった。たとえば、佐々木俊尚氏をイメージすると分かりやすいかもしれない。ここにおいては、キュレーターを「専門分野において情報を収集・フィルタリングして、客観性があり、正当性の高い情報として発信する存在」と定義したい。

ポイントは、「各論」と「利他」である。ひとつは、ある課題に対して総論で語るのではなく、各論に落とし込むことで各項目の専門家がより精度の高い議論、情報提供を目指すこと。もうひとつは、利他的であること。奇しくも先日、石井孝明氏もキュレーターの重要性について触れていたが、正しい情報を積み上げることで判断材料を与え、個人が冷静にジャッジできるようになる状況は、「利他行為の追求としてのキュレーション」によって初めて実現できると考えるからだ。

有益な情報を発信する役割を担うとはいっても、客観的に信頼に値する存在であることが前提であり、「自称ジャーナリスト」などと揶揄されることもあるかもしれない。それに、いたずらにキュレーターの数が増えれば、誰を選べばよいかわからないという本末転倒な事態にもなりかねない。しかし、それでも一人ひとりは、利他行為の追求としてのキュレーションを目指すべきなのである。

苦しい局面において、排他的精神は何も生み出さない。異論を唱える者を攻撃的に批判したり、一方的にレッテルを貼って否定することは 建設的な議論、目指すべきものに近づこうとする意思を損なう行為でしかない。今や、それぞれの専門分野で正確な知識を集め、それをしかるべき方法・場所で提供することが求められている。その意味では、キュレーションの中にはノイズを的確に選別することも含まれるだろう。

ひとたび情報の海に飲み込まれてしまえば、ガラスの欠片は散らばり摩耗してしまう。だからこそ、それを拾い集める存在が必要なのだ。できる限り主観を捨て、フラットな立場で正当性のある情報を提供していくことで、少しずつノイズを取り除いていく。

一つひとつにはほんの少しの輝きしかないかもしれないし、それを美しいと思う者、何かに利用できると考える者はいないかもしれない。だが、これらを集めビンの形に整え磨き上げれば、光り輝く入れ物として価値を取り戻すことができる。そう考え真摯に情報に向き合う者が、疲弊感を打破し得るキュレーターなのだ。

青木 勇気
@totti81