「昭和の悲劇」は二大政党制に基づく政治主導により引き起こされた(2/2)

渡邉 斉己

次いで、政治主導の失敗という点で最大の問題となるのが、昭和5年の統帥権干犯事件の時の政友会の行動でしょう。これも、一般的には軍令部長加藤寛治等が引き起こしたものとされていますが、必ずしもそうではない。それは、張作霖爆殺事件の真相もみ消し、第二次若槻内閣で幣原外相の腹心として対支外交関係の修復にあたっていた佐分利公使怪死事件(s4.11.29)とも連動した、幣原外交妨害工作の一環ではなかったかと私は推測しています。


この統帥権干犯事件とは、ロンドン軍縮会議における海軍軍縮交渉において、政府が補助艦総括的対米7割は満たしたが、大型巡洋艦6割(7割要求)、潜水艦対等15,000t減(現有要求)で妥協したことに対して、海軍が「政府の受諾した削減兵力量をもっては、国防の安全を期しえない」として反対した事件です。しかし、最終的には、海軍側も政府が現有艦船の勢力向上、航空兵力の整備他の補充策を講じることで、このロンドン軍縮会議における日米妥協案を承認していました。

ところが、このすでに決着したはずの「兵力量不足」の問題を、「統帥権干犯問題」として政治問題化したのが、これまた政友会の森恪でした。

森格の伝記には「森は中国大陸からアメリカの勢力を駆逐するのでなければ、とうてい日本の指導権を確立することはできない、満蒙を確保するためには、対米七割の海軍力は絶対必要な兵力であるとの考えを持ち、ロンドン条約の成立を阻止するため、もっぱら宇垣陸相と軍令部方面に働きかけ、国民大会を開いて条約否決、倒閣を工作し、森の意を受けた久原房之助、内田伸也は枢密院工作を行った」と記されています。

また、「岡田日記によれば、五月から六月にかけて、山本悌二郎、久原房之助、鈴木喜三郎などの政友会の幹部が岡田大将を訪問し、手を変え品を変えて、海軍をして国防不安なりといわせようと策動しており、また六月十日の加藤軍令部長の帷幄上奏を森が前もって知っていた事実などから見て、軍令部豹変の背後に政友会があったことは間違いないものと思われる。財部海相自身も、後日統帥権問題に就いての知人の質問に『あれは政友会のやった策動であった』」と答えています。(『太平洋戦争への道1』p110)

つまり、統帥権干犯問題というのは、それを最初に発想したのは北一輝ですが、それを議会に持ち込み政治問題化したのは、軍ではなくて政治家だったのです。では、なぜ森恪は、「責任内閣の国防に関する責任と権能を否定せんとするが如き」統帥権干犯問題を引き起こしたのでしょうか。言うまでもなく森は、第二次南京事件以来、軍縮に不満を持つ軍人らを政治的に巻き込み、その実力で以て自らの大陸政策を推進しようとしており、この時も、「兵力問題」を「統帥権問題」として政治問題化することで、民政党からの政権奪還を図ろうとしたのです。

まさに、政党政治家としては自殺行為であったわけですが、もし他の政治家が、こうした森恪の政治手法に与せず、統帥権(作戦用兵だけでなく編成権も含む)を政府の統制に服さない独立した権限とみなすような解釈を許さなかったならば、あるいは、満州事変という張作霖爆殺事件の「やり直し」のような謀略的軍事行動が引き起こされることもなかったのではなかと思います。この事件の首謀者である石原完爾は、この統帥権を「宇宙根本霊体の霊妙なる統帥権」と形容していました。

ところが、それまで政党政治確立のために軍閥と戦ってきたはずの犬養毅や鳩山一郎までが、この森格に引きずられて、政府の統帥権干犯を議会で攻撃したのですから、話しになりません。このため、時の総理浜口雄幸は右翼青年に狙撃されて死亡。これ以降、軍の統帥権を盾にとった軍事行動に政府は全くタッチできなくなり、日本外交は政府と軍の二重外交に陥って、国際社会における日本の信用は地に落ちました。

さらに、こうした政党政治家による党利党略的な行動が日本の進路を誤らしめたもう一つの決定的な事件が、昭和10年の「天皇機関説排撃事件」でした。

この事件は、昭和9年に、狂信的右翼思想家蓑田胸喜らが美濃部達吉の著書『憲法撮要』を国体破壊にあたるとして不敬罪で告発したことに端を発しています。しかし、当時の学界や官界では美濃部の学説が定説とされていて、これは不起訴となりました。そこで蓑田は貴族院の菊池武夫に美濃部の天皇機関説を攻撃させ、これを政治問題化しようとしました。その結果、国会における論戦では美濃部は菊池を圧倒しました。

ところが、この時の美濃部の弁明について、菊池も「それならなにも問題にならぬ」と納得したにも拘わらず、政治的には「機関説」という言葉が天皇の「神聖性」を犯すとして忌避されるようになり、なんと、貴族院と衆議院で機関説排撃「国体明徴」決議案が可決され(s10.3)、続いて、政府による二度にわたる「国体明徴」声明がなされ、翌年5月には、文部省より『国体の本義』が刊行されるに至りました。

この天皇機関説排撃事件によって、それまで三十年来唱導され、学界、官界、政界に定着していた明治憲法下における天皇の国家法人説に基づく機関説的理解が、理論上の問題としてではなく、あくまで心情の問題として否定されるに至ったのです。こうして、「天皇親政」さらには「国体明徴」という意味不明な言葉に人々は思考停止させられ、憲法に規定する複数政党制に基づく議会政治も否定されるに至りました。

この結果、それまでの日本の思想・政治・教育・宗教などのあり方が、皇国史観に基づく尊皇思想に基づいて根本的に見直されることになりました。その後、肇国の精神、万邦無比の国体、祭政一致、現人神などといった独善的・狂信的な国体観念が国内世論を圧するようになりました。こうして、国民の思想・信条の自由は圧殺され、、泥沼の日中戦争、そして日米戦争へと突入していったのです。

このように、昭和の政治家が実践した政治主導や二大政党制は、実に惨憺たる結果を生んだのです。では、その原因は何か。それは政治家が、一、虚偽の宣伝をなし国民の客観的な事実認識を誤らしめたこと。二、党利党略に終始し世論誘導・迎合的な政策を採ったこと。三、議会において実のある政策論議を行わなかったこと、四、法に基づく厳格な制度運用や処罰をしなかったこと、等によります。また、より根本的には、国民の思想・信条・言論・集会の自由を守ることができなかったことです。

そこで、こうした歴史的教訓を今日の政治にあてはめてみると、果たして、この一、二、三、四の問題点は十分克服されているでしょうか。特に民主党による「政治主導」については、このいずれも落第と言わざるを得ず、党内からも、「政権交代ではなく、政権泥棒だ」との批判が出る始末です。最後の、国民の思想・信条・言論・集会の自由については守られていると思いますが、橋下氏から「決定できない民主主義」「責任をとらない民主主義」との批判を受けています。

では、この橋下氏の大阪維新の会についてはどうでしょうか。願わくば、彼等が、この一、二、三、四の歴史的教訓をクリアするだけの見識を備えた政治グループであって欲しいと思います。「思想・信条・言論の自由」の保障は言うまでもありませんが、1月28日の「朝ナマ」での討論を聞いて感じたことは、橋下氏の一番の問題点は、「法は個人の外面的行為を規制するのみ」ということについて、どれだけ自覚的であるか、ということです。

例えば、「日の丸・君が代」の起立斉唱を条例で規定しても、イヤな人は「口パク」でもかまわないのです。日本の歴史や文化についての正しい理解や国を愛する心は、国民一人一人の主体的意志によるほかないのであって、それを強制しても意味がありません。また、教育行政制度改革について言えば、政策立案には先行研究の成果を十分踏まえる必要があります。ご意見を拝聴する限り、いささか思いつきのレベルを脱していないように思われました。

以上、今日当たり前のように思われている「政治主導」や「二大政党制」が歴史的にどのような結果を生んだか。政治家に見識がなければ、それがいかに悲惨な結果をもたらすか、について説明しました。政治家の皆さんにはこうした歴史的教訓を十分踏まえていただきたいと思います。