「意図せざる一致」の終わり

池田 信夫

きのうの読書塾では、特別ゲストとして島田裕巳氏に「日本人と宗教」について話してもらった。日本人の不思議な習性を考える場合、その「無宗教」が重要な特徴だからである。


これは宗教という概念をキリスト教のようなreligionをモデルにするところに問題があり、日本人の場合は「他人を信じる」という意味のbeliefが強いので、超越的な信仰は必要ないと考えることもできる。この場合の「他人」は不特定多数ではなく、自分と同じ集団に所属するメンバーだけである。

山本七平の言葉を借りれば、この「日本教」は教義も教会もない「アニミズム」だが、すべての日本人に共有されている。社会生物学的に考えれば、このレベルの利他主義はある程度、遺伝的なものと思われるが、こうした土着信仰が文明国に残っているのは珍しい。西洋では、たとえば土着宗教の冬至の祭は「クリスマス」としてキリスト教に組み込まれたが、日本では土着信仰がイエやムラの世俗的な集団主義として残った。

これは気候や水に恵まれて豊かで対外的な戦争がなく、同質的な人々が一つの村で一生すごす安定したコミュニティが数千年にわたって維持されたためだと思われる。水利構造も、中国のような乾燥地帯では遠くから大規模な運河を引くために東洋的専制が必要になるが、日本は傾斜が急なので水路は小規模になり、村ごとに管理される。米作を行なうためには水を貯めて田に引く複雑な水路をつくり、緊密な共同作業で水を管理しなければならない。

だから江戸時代初期まで田は村全体のコモンズで、その収穫は各戸に平等に分配された。田が各戸ごとに分割されるようになってからも、村内で水の配分をめぐって争うことは固く禁じられ、そういう秩序を乱す者は文字どおり村八分によって排除された。このコモンズとしての水を守るのが、村民の共有する「空気」としての掟だった。

今は水田の農作業はほとんどの人には無関係なのに、サラリーマンにもこうした行動様式が埋め込まれている。福島第一原発事故をめぐる民主党と経産省・東電の闘いを描いた『メルトダウン』を読むと、各省庁や企業の「村」を守る求心力が強いのに対して、全体最適を考える発想がなく、寄ってたかって首相の足を引っ張る。これは村ごとの平和を至上命令とする「日本教」が、今も強く共有されているためだろう。

これを「農耕民族の特徴」というのは、必ずしも正しくない。遺伝的な集団主義はすべての人類に普遍的で、これは狩猟民の行動である。それが農耕社会になって階級社会ができ、戦争に備えて社会を組織化するために宗教や法律ができたのだが、日本は異例に平和だったため、そういう人工的な制度が必要なかったものと思われる。

そして島田氏もいうように、こうした中間集団の求心力の強い構造が自動車のような補完性の強い製造業にたまたま適していたことが、プリミティブな集団主義が現代に根強く残っている原因だろう。これは青木昌彦氏が、日本の水利構造と製造業の意図せざる一致として指摘した点である。

しかし、こうした集団行動が高い生産性を発揮する時代は終わった。要素技術がモジュール化すると「すり合わせ」の必要性は低下し、高コストの製造部門は新興国にアウトソースすることが効率的になるが、長期雇用がそれを拘束する。大胆な方針転換をしようとしても、根強い平等主義が強いリーダーを許さない。現在の行き詰まりが古代から継承された「日本教」に起因するとすれば、それを打開することは容易ではない。