「百人斬り競争」論争における現在と未来

渡邉 斉己

前回、5回にわたって「百人斬り競争」事件に関する記事を投稿させていただきました。何を今さら、と思われた方もいるかと思います。この論争は、ベンダサンvs本多論争以来の議論の積み重ねがあるし、裁判でも争われたのに、それを無視しているのではないかと・・・。

では、その後、この論争はどのように発展してきたでしょうか。実は、それは、「日本刀の硬性」=日本刀で何人の捕虜等を殺傷できるかなどの、脇道にそれた議論に終始しただけで、論争としてはほとんど進歩がなかった、と私は考えています。

ところで、この「日本刀の硬性」ということについては、秦郁彦氏が「いわゆる『百人斬り』事件の虚と実(二)」で、山本の「日本刀はバッタバッタと百人斬りができるものではない」という言に対し、無抵抗の捕虜を据えもの斬りする場面を想定外としていることと、成瀬著の『戦ふ日本刀』から都合のよい部分だけ引用している、という二つの理由から、「トリック乃至ミスリーディング」と評しています。


しかし、山本が日本刀の脆弱性について言及したのは、東日の新聞記事の第4報で、両少尉が互いに100を超えたレコードを「さすがに刃こぼれした日本刀を片手に」報告し合い、さらに向井少尉が、記者の前で「俺の関孫六が刃こぼれしたのは一人を鉄兜もろともに唐竹割にしたからぢや、戦ひ済んだらこの日本刀は貴社に寄贈すると約束したよ」と述べたことを受けてのことでした。

つまり、本当に両少尉が百人斬り競争をしたとすれば、その時の日本刀は、血糊による刃先の腐食、刃こぼれ、刀身の曲がり、目釘のがたつきなどでひどい状態になっていたはずで、記者らはその日本刀を見たのか、それを見れば、「百人斬り競争」が事実であったか否かすぐに分かったはずだ、と言っただけのことです。

そもそも、捕虜等を「据えもの斬り」で殺そうと思えば、何も日本刀を使わなくても、カミソリでも可能です。つまり、なぜここで「日本刀の硬性」が問題になったかといえば、近代戦において日本刀で100人の敵をバッタバッタ殺すようなことはできない、という単純な事実を指摘したに過ぎません。このことは、成瀬の著書によらずとも、本多氏等が持ち出した鵜野晋太郎の証言でも証明されます。

また、「百人斬り競争」裁判も行われました。その判決は、「百人斬り競争」の記事の内容を信じることは出来ないし、その戦闘戦果ははなはだ疑わしいと考えるのが合理的である。しかし、両少尉が新聞報道されることに違和感を持たなかった、つまり、その記事の元となった武勇伝を記者に話したことは事実であるから、これを記者の創作記事であり全くの虚偽であると認めることは出来ない、というものでした。

また、朝日新聞の出版した書籍に、両少尉を「殺人ゲームの実行者」「捕虜虐殺競争の実行者」と名指しする表現があることについては、これは甚だしい名誉毀損表現であるから、控訴人等が受けた精神的障害を賠償する義務がある、としました。ただし、本件摘示事実(捕虜等を「据えもの斬り」したと主張されていること)が、その重要な部分において全くの虚偽であるとは認められないので、当該書籍の出版差し止め等は認められないとしました。

これは要するに、たとえ両少尉が「ヤラセ」で武勇談を語らされたとしても、あくまで本人が語ったことであって、いわば自白と見なされるということです。従って、これが記者の利益誘導によるものであっても、その対象となった戦場心理(参照「戦場の精神的里心」)は戦後生まれの裁判官には分かりませんから、その結果、両少尉の「自白」が重視され、「ヤラセ」を誘導した記者の責任は問われない、ということになったのです。(南京裁判と同じですね)

また、「本件摘示事実」が、その重要な部分において全くの虚偽である事が証明されたわけではない、とする判断については、その論拠となったのは、大なり小なり、この「百人斬り報道」の延長あるいは余波としてなされた両少尉の言動、あるいはそれにまつわる伝聞証言や手紙その他新聞記事等であるようです。しかし、これらはその何れも「百人斬り競争」報道がない限り、生まれないものでした。

ところで、この両少尉の「百人斬り競争」が新聞記事となるについてとった態度には違いがあって、山本七平は、向井少尉が主導的な役割を果たし、野田はそれを茶化しながらも親しい友人のことだから「引き立て役」で付き合う、といった態度だと見ていました。実際、記事にある台詞は、ほとんど向井少尉で、野田少尉の会話は以下のような半ば冗談のようなものでした。

それは、第一報の野田の会話「僕等は二人共逃げるのは斬らないことにしてゐます、僕は○官をやつてゐるので成績があがらないが丹陽までには大記録にしてみせるぞ」に現れています。というのは、軍隊では人称代名詞を使う場合は必ず「自分は」でなければならず、「ボク、キミ、アナタ、ワタシ」は禁句で、次のような戯れ歌まであったといいます。”ボクといったら撲られた、ワタシといったら撲られた、ホンマに軍隊ヘンなとこ”。

また、この「百人斬り競争」は「前線ではさしたる話題にはならず、なっても新聞の誇大な武勇伝の一つとして軽く受け止められていた」。しかし、数年経つと内外を問わず二人は有名人になってしまい、「二人はどう対応したらよいかとまどったようすが窺える。話題を振られると、小心なところがあった向井は苦い顔で沈黙し、剛胆奔放な野田は開き直って茶化すという正反対の対応に走った例が多」かった、と秦氏は述べています。(秦上掲論文)「百人斬り」裁判で提出された新資料にはこうした両者の性格の違いがよく現れています。

また、これらの資料の中でとりわけ注目を集めたのが、望月五三郎の『私の支那事変』(私家版)における「百人斬り競争」に関する記述でした。ここでは「百人斬り競争」はまるで絵に描いたような住民(=農民)虐殺競争として描かれています。しかし、この本の出版は昭和60年7月1日で、本多氏等が「虐殺説」を唱えはじめた後の出版であり、前後の文脈からして不自然で、資料的価値は全くないと思います。

そもそも、両少尉の所属する第16師団が白茆口に11月15日頃上陸し、無錫から紫金山まで約180キロの間を14日間で、後退する敵と戦闘を交えながら走破した強行軍において、そんな農民=住民虐殺ゲームなどやってる暇などなかったはずです。また、前回も指摘しましたが、この強行軍の中で多忙を極める大隊副官と歩兵砲小隊長が、自らの職務を放棄して、このような残虐な私的競争をやるなどあり得ない話で、また、軍紀上も決して許されなかったと思います。

また、戦後生まれの私たちは、時代劇の影響で人を斬ることが簡単なように思っていますが、実は、「人体を日本刀で切断するということは異様なことであり、何年たってもその切り口が目の前に浮かんできたり、夢に出てきたりするほど、衝撃的なこと」だといいます。「従って本当に人を斬ったり、人を刺殺したりした人は、先ず絶対にそれを口にしない、不思議なほど言わないもの」なのだそうです。まして、それを武勇談にして新聞に載せるなどありえない話です。

にもかかわらず、裁判所の最終判断が、「百人斬り競争」において示された「本件摘示事実」が、その重要な部分において全くの虚偽であるとは認められないとしたのは、これらの新資料によるのではないかと思われます。しかし、こうした判断は、前回の論考で述べた通り、東日の「百人斬り競争」記事が「ヤラセ」であったことが証明されれば、自ずと消えて然るべきものです。そして、その証明は30年前の論争で決着したと思っています。

聞くところでは、南京大虐殺記念館を世界遺産として登録申請しようとする動きもあるそうです。その時、その入り口に掲げられた等身大の両少尉の写真は、私たちに何を語りかけるでしょうか(前回紹介した野田少尉の日本国民に向けた遺言も想起すべきだと思います)。その時までに、私たち日本人は、この事件の真相を明らかにしておく必要があると思います。なにしろそれは、戦意高揚をねらった日本の新聞記事により引き起こされた歴史的冤罪事件だったのですから。