科学と政治の分離

2012年04月01日 12:50

「毎日がエイプリルフール」の自由報道協会も、上杉隆代表が「郡山市に人は住めない」と称するデマ記事でWSJの記者の談話まで捏造し、あえなく自爆したようだ。今回の原発事故は、日本人の科学リテラシーの低さを世界に宣伝する結果になってしまった。


その一つの原因は、こうした自称ジャーナリストなどが事実価値判断を混同し、科学者をモラルの名で断罪したことだ。「低線量被曝はそれほど心配ない」という医師を「許せない」と攻撃した田中龍作氏や、放射線のリスクを知らないのに「原発推進派の話法が悪い」などと意味不明な話をくり返す安富歩氏がその典型だ。

彼らの共通点は「原発は絶対悪だ」と思い込み、放射能のリスクを過大評価することが正義だと信じていることだ。その価値判断から「放射線はどんなに微量でも危険だ」という事実が導かれ、「それほど危険ではない」という科学者を「御用学者」として断罪する。

このように事実を価値判断に従属させる呪術的思考は、それほど珍しいものではない。人類の歴史の大部分において、人々は世界を神話や宗教で解釈してきた。戦争や自然の脅威から身を守るためには、人々が一致して行動することが重要なので、集団的な規範で事実を解釈することは彼らの生存のために必要だった。

それに対して、近代科学は価値判断に依存しない事実判断を実験や観測によって行なう新しい方法論を確立した。それはよくいわれるようにキリスト教に反して出てきたのではなく、むしろキリスト教神学の論理的帰結だった。「宇宙に普遍的な神の法則が存在する」というキリスト教の信仰が科学を生んだのだ。

しかし実証主義のめざましい成果は神を「余分な仮説」とし、世界を脱神話化した。ここでは事実は価値判断から切り離され、予断を排して事実だけを追究することが科学者の規範である。逆に事実から価値判断も導けないというのが新カント派であり、新古典派経済学の実証的理論と規範的理論の区別もこれにもとづいている。

ところがクーンやファイヤアーベントは、科学的パラダイムも科学者集団の政治力学で決まることを明らかにした。ここで歴史は一巡し、やはり事実は価値判断に従属することがわかったのだ。特に放射線の被害のような統計的データについては、その解釈に政治的立場が混入することが多い。

このように科学は政治から独立ではないが、あす太陽が昇るかどうかがパラダイムには依存しないように、学界で合意された事実は存在する。反原発派の特徴は、論文の査読などの手続きを無視して、学術論文と反核団体のウェブサイトを同列に論じ、自分たちの気に入らないデータを「隠蔽」などと非難することだ。

原発に賛成か反対かという政治的立場と、放射線のリスク評価は別問題である。100Bq/kgの放射線で健康被害が出たというデータは世界のどこにもないのだから、そんな基準で食品や瓦礫を処理するのは非科学的だ。「わからないリスクは安全側に倒す」ことも、被災者の帰宅を遅らせて二次災害を拡大する。科学を政治と切り離し、費用と便益のバランスを考えて合意を求める努力が必要である。

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池田 信夫
アゴラ研究所所長 SBI大学院大学客員教授 学術博士(慶應義塾大学)

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