「価値観で生きる」ことの悩ましさについて

青木 勇気

あのね、世の中は「都合」で生きている機会主義者ばかりじゃないのだと知ること。「価値観」で生きている人がいるのだよ。「都合」の人には「決断する力」がありません。

「(著作の感想など)自分にとって都合のいいものしか公式RTしないのか?」というTwitterでの質問に対する、猪瀬直樹氏の返答である。

以前、「なぜ、利害関係がなく金銭的なメリットもないのに書き続けるのか」という文脈で感傷的に過ぎる文章を書いたが、そこで伝えたかったことが猪瀬氏の言葉に凝縮されていると感じ、また、「価値観で生きる」ということこそが、相互理解の地平を歪ませるのではないかと思い至った。本稿では、「機会主義者」をキーワードに、価値観で生きることの悩ましさについて論じたい。

まず、この場合の「機会主義者」は、「利害関係で言動を決める人」と言い換えることができる。仮にそういう存在なのだとすると、「都合のいいものだけをRT」は、印象を操作し、少しでも好感度を高め、売り上げを上げることを狙ってやっていることになる。「いや実際そうでしょ」と言う人もいる。もちろん、PR要素が強いものもあるだろうし、売り上げにつながったり、好感度が上がることはやぶさかではないはずだ。

しかし、それらはすべて副産物である。富や名声のために価値観をコントロールすることはできないし、たとえコントロールできたとしても、それらが手に入るとは限らない。しかも、それはTwitter上での話に過ぎない。だから、そんなことをしても無駄で、動機はあくまで「価値観」の中にある。猪瀬氏は、このことを端的に述べているのではないだろうか。

「価値観の共有が目的なら、公式RTしなくても他に方法があるのでは?」と疑問に思うかもしれない。確かにその通りだ。他のやり方もあるだろう。なぜなら、それこそ個々人の価値観によって変わるからである。

Twitterの公式RTは、口コミや注目度を可視化するのに向いているし、感想をツイートしたりブログにレビューを書いてくれた人に対する無言のお礼(合図)にもなる。ただ、だからするという人もいれば、フォロワーのTLを埋め尽くすのを憚る人もいれば、単純に面倒くさいからやらないという人もいるだろう。つまり、公式RTをするか否かでは、機会主義者か否かは決まらない。

また、もうひとつ。そもそも、「都合のいい」ツイートばかりだったとしても、それは作り手や発信者にとって必ずしも「良いこと」ではない。なぜなら、伝えたいことと伝わっていることのポイントが大きく外れた上で良いとされていたり、賛同ばかりで発展的な意見や批評が見られなかったり、肯定的な声が相対的に多いものの全体的に見ればあまり注目されていないこともあるからだ。

こう考えると、「都合のいいものだけ」「公式RTは打算的」という前提自体が適切でないことが分かる。むしろ、機会主義者は「◯◯なのは▲▲だからに違いない」という思い込みの中に「いる」のである。

しかし、たとえば、ある人が「彼は機会主義者に違いない」と言い、他の誰かが「彼が機会主義者のはずがない」と逆のことを言うとき、これだけでは前者は自分を賢いと思い込んでいる馬鹿者、後者は騙されていることに気づかない愚か者などと、どちらかを退けることはできない。文面としては、どちらも「決め込んでいる」からだ。

言うまでもなく、判断材料を精査することが必要となるが、発言や行動の一部だけを切り出して批判、もしくは擁護するとき、大抵の場合は背景や前提とするものがなおざりにされ、ポイントそのものがズレたり、ツッコミどころ満載のものになりがちである。いずれにせよ、証明するのは難しい。

では、どうすればいいのか。「文脈で判断する」しかないだろう。ある人の特定の言動を切り出すのではなく、彼がどんな人物で、何を大切にしていて、そのためにどんなことをしてきたのかと「歩み」を振り返り、その上で言動の真意に想像力を働かせ、言っていることとやっていることが矛盾しないかを判断するということだ。

冒頭で紹介した猪瀬氏のツイートを見る限り、「都合」を価値観の物差しにするのは浅はかであることは自明に思えるが、一方で「そのように見える」「そうとしか思えない」という人がいる。そしてそれは、何らかの価値基準に支えられている。

価値観は、暗黙的な「文脈」であり、明示的な「言葉」ではない。それとわかる種類のものだ。意志や信念を下支えするものでありながら、共有するのは難しい。だからこそ、価値観で生きることは悩ましいのである。そして、何かを決断するということは、好むと好まざるとにかかわらず、この悩ましさを引き受けることでもあるのだ。

青木 勇気
@totti81