日本統治の悪しき「三種の神器」―「後手、後手」「泥縄」「想定外」

北村 隆司

国交省は、関越道で7人が死亡したバス事故を受けて、バスなど公共交通の安全を確保するための「検討チーム」を設置し、どういう方向性で取り組むべきかの協議を始めたと言う。

子供でもあるまいし、今更「どういう方向で安全を確保する」かを検討する等とはふざけるのもいい加減にして欲しい。

日本の行政は、事件に遭遇する度に「後手、後手」「泥縄」「想定外」を三種の神器の如く振り回すのが癖である。この様な、行政当局の学習能力の乏しさに呆れていた時に、産経新聞電子版に野口裕之産経記者が書いた「日本滅ぼす101本目の法律」と言う記事が目に留まった。


この記事は、「わが国では100個の事態に100本の法で対処する。これでは101個目の事態が起これば、101本目の法律が必要となり、斯(か)くして法律は増殖し続け、既存法との整合性を図ることもあり肥大・複雑化する一途」だと指摘しているが、全くその通りである。

国際化とスピード化が急速に進むこの世の中で、ガラパゴス的時代遅れの法体系を持つ日本が生きて行ける道理がない。

国家の生き残りも重要だが、「生命」「自由」「財産」を守る事が基本的な義務である筈の民主国家が、事故が起きる度に検討会を作って「どういう方向で安全を確保するか」を協議する様では、国民が行政を信頼出来ないのも当然である。

それにはどうしたら良いか? 万能薬は無いにしても、昔から智恵者が主張して来たように、日本の法体系をポジリストからネガリストに変換するしかなかろう。

ポジリストとは、「○○してよい」と法律に明記することで、ネガリストは「○○してはいけない」と明記することだという。

米国をはじめ多くの先進国では、ネガリストを明記し、後は行政に判断させるようになっており、その結果、各行政機関はそれなりの機能を発揮して居る。世界の先進国の大半が導入している「ネガリスト法体系」を日本が導入する為の障害となっているのが、人事院規則に保護された無責任官僚制度である。

ネガリスト法体系は、判断権者が例え合法な判断をしても「良識」「常識」に反する判断だとみなされると、「その任にあらず」と言う形で責任を問われかねず、公務遂行中の瑕疵を問わない現在の公務員制度の根幹を否定する可能性がある。

又、判断権者がミスジャッジした場合の言い逃れも難しい。結果として個人の能力差が鮮明に出るために、年功序列制を脅かす事になり、現在の公務員制度の破壊につながる事もネガテイブリスト法体系の導入を難しくしている。

例えば、現在のポジリスト制度では、警察官は書いてあることはできるが、書いてないことはできない事になっている。その結果、個人の能力や創意は生かされず、無事これ名馬のことなかれ主義が横行する基になっている。これとは反対に、ネガリスト法体系では、法律が明文で禁じたことはできないが、明文で禁じていないことはできる為に、警察官の良識、常識、機転が警官の能力発揮の場となるだけでなく、国民を助ける事に繋がる。

それに比べ、常識を棚に上げて、全てをポジリストの頭で処理しようとしている官僚や政治家の議論が不毛に終わるのは「悪法も法なり」の法律万能主義がもたらす弊害である。

「想定外」の事態で起こるのが「事故」であり、法律の抜け穴や新手の犯罪を考えるのが知能犯の特徴である以上、ポジテイブリストではこうした想定外やグレーゾーン事態には対処しきれず、必ず「101個目の事態」で足踏みするのは当然である。

環境問題を例に挙げると、日本で最初の大気汚染防止に関する法律であった1962年制定の「ばい煙の排出の規制等に関する法律」は、石炭燃焼が前提で作られていた為に、間もなく主要な使用燃料が石炭から石油に移行すると対応しきれなくなってしまった。

そこで、1968年になって根本的に見直し制定されたのが、大気汚染防止法である。しかし、この大気汚染防止法においても中央中心の行政では改善が見られず、地方自治体の権限を大幅に強化したことで、やっと効果的な役割を果たすこととなった。

「公害輸出国」と非難された世界最悪の公害国家日本を、短い期間で一流の環境国家に変えた要因には、国民にも解り易く、普遍性のある法律を作り、それを事業所の誰にも見える場所に公示するだけでなく、一般人から「公害モニター」を募集して「内部通報」を奨励するなど、日本には珍しい「ネガテイブリストと透明性の確保」の2本柱が支えとなった実例がある。

この事例でも解る通り、国民参加型のネガテイブリスト型法制度が今後の日本が向かう道である。その為には、法制度の透明化と性善説法体系を前提としなければならない。現在の様な「国民性悪説によるポジテイブリスト型法体系」は能率の悪さが行政コストを引き上げ、常識を無視した「法律万能主義」が巨悪を逃す差別国家を生む元凶になっている。

先進国の多くでは、司法が先行して社会の変化を導いているが、ポジテイブリスト型の日本の立法府と行政府は、社会の変革には殆ど役割を果たしていない事からも、日本の法体系をネガテイブリスト型に変える事が「三種の神器」を追放する要諦ではなかろうか?