お金の教育のススメ --- 小松原 周

アゴラ編集部

日本人の大人の中で「投資」と「投機」の違いについて答えられる人は何割くらいいるであろうか? これをご覧の読者の方々にとっては、もしかしたら簡単な問いに聞こえるかも知れないが、実際には大多数の人が答えられないであろう。何故ならば、これは私が個人投資家向けセミナーや、大学生向けに「株式投資とは何か」というプレゼンをした時に、実際に体験してきたことだからだ。


私は投資を行うことの社会的意義や、将来を予想して価値のギャップを見つけることの楽しさを説明したつもりであったが、返ってくる質問は毎回、どのようにして倍になる銘柄を見つけるのか、とか、どのようなルートで他人の知りえない情報を得ているのか、などばかりであり、日本では株式投資は未だに投機(ギャンブル)の域を脱していないということを、改めて実感する出来事となった。

最も、このようなことは無理もないことである。もしも私が今とは別の業界で仕事をしていたなら、そんなことは分からないというか、考えたこともなかったと思うからだ。投資云々以前に、恥ずかしい話だが、私は社会人になるまで、株式会社は株主の所有するものであることを知らなかったし、金利はモノ・サービスのコストの出発点であることを知らなかったし、もっと言えば、価格とは需要と供給で決まることも知らなかった。

筆者のような事例は、少し極端かも知れないが、平均的な教育を受けた日本の若者の実経済に関する知識とは、多かれ少なかれ、このようなものであると考えられる。学校では元素周期表を語呂合わせで憶える方法は先生に教えてもらったが、どのようにすればお金を稼げるのか、どのようにしてお金が世の中を回っているのか、或いはやや哲学的に経済的な富と幸せとは何か、などは教えてくれなかった。

他の先進国の学生が、生きた経済の中で付加価値を生む術を学び、自ら考える習慣を身に着けて社会へ出るのに対して、丸腰の日本の学生は、社会人になった時から「社畜」として生きるマインドセットを身に付けていくのである。これではあまりにも学生が可哀想である。

「お金とは何か」という問いに対するアプローチは、様々な角度から学際的なアプローチが可能であるし、学校教育でも十分に一科目として成り立つ程、学ぶべきことは多いと思う。確かに、教育としてお金の価値観を子供に植え付けるようなことは好ましいとは思わないが、少なくともお金を儲けることが悪であるとか、清貧であることが美しいとか、お金は汗水を流して稼ぐものというような考え方は、時代遅れな気がしてならない。自らのアイディアで事業に成功し多くの富を得た若者が、英雄ではなく成り上りの異端者のような目で見られるのは日本独特の現象であるし、これらの発想の根底にあるものはお金の知識の乏しさ故の、社会的な弊害のひとつではないかと感じてしまう。

もちろん、中にはこのような問題意識を持っている教育現場もあり、私の知っているある高校では、学校の学園祭を利用して、生徒に株式会社を設立させ、自分達で企画し、調達し、仕事を分担して、実際に屋台などでお金を稼ぐことを体験させる試みを行っているところもある。生徒たちは、株式会社が意外に簡単につくれることを体感し、自らのちょっとしたアイディアでより多くのお客が集まることを学び、組織をマネジメントすることに悩んだりして、短い間にとても貴重な体験学習をするのである。

苦労の末に、最後に会社を解散して利益を分配した時の彼らの表情は、皆とても清々しく達成感に溢れているように見える。そのお金は自分達が何もないところから生み出し、誰かを幸せにすることで得た本当の経済付加価値なのだ。

1,300兆円あると言われる日本の個人金融資産は、今でも銀行預金として眠り、そしてそれが日本国債を買い支えるという構図が今でも続いている。この国が高金利で成長期にあった時代にはこの流れはとても上手くワークしたが、低成長経済の中でお金の流れが止まると、いつまで経ってもそこから抜け出せなくなる負のスパイラルへ陥ってしまう。

お金はただそこにあるだけでは新しい価値は生み出せないが、誰かの思いと結びつき、誰かが幸せになることの媒介となった時、新しい価値を生み出す力がある。日本人がそれぞれにお金とは何かを考える機会があれば、この国はもっと生き生きとした国になるのではないだろうか。

小松原 周(あまね)
アナリスト/ファンドマネージャー