知性を磨き、世の中の見方を変えよう

2012年06月16日 00:51

自然史博物館に行くと、様々な動物、植物の標本を見ることができます。動物の標本の場合は、大きな動物でも、それをそのまま剥製などの形で、全体を保存することになります。ところが、植物標本を見ると、木の標本の場合は、その、ほんの一部を標本にしています。これはなぜでしょうか?

これは次のように説明されます。 

大きな木があるとしましょう。 その大きな枝を切り取って、地面に立てれば、それは元の木とほぼ同じ形になるでしょう。つまり、動物と違って、植物の場合は、その一部が全体と同じ構造になっているのです。 だからモミの木の枝を切り取ってクリスマスツリーにできるわけです。 


これは自己相似性(self similarity)という現象で、植物の構造が、全体を統括する脳のような構造を持たず、同じルールでその部分部分が成長を続けるということから起こる現象で、数学的には、力学系理論で説明されます。このように自己相似性を持つ図形をフラクタルと呼びます。例えば、下のビデオのMandelbrot集合と言われるものがその典型例です。

世の中を一皮めくって見る

私は数学者なので、数学が自然現象、経済現象などあらゆる現象の背後で、それを支配しているのを実感します。 

上で挙げた、植物の体の構造もそうですし、蝶の翅の紋様の生成、自然界における生物の分布、周期的に大発生する昆虫の発生メカニズム(13年ゼミ、17年ゼミは有名ですね、これらの周期が素数であることには理由づけがあります)、力学や熱の伝搬などの物理現象、ファイナンスなどの経済現象、伝染病の伝搬などほとんどの自然現象、社会現象は、全て数学で記述、解析することが可能です。 

このようにあらゆる現象に、数学は関係していているわけですが、数学を通して世の中を見ると、上に挙げた植物の自己相似性のように、普通なら意識に上らないような、世界の舞台裏を見ることが出来るのです。つまり、個々の現象を観察するときに、その現象を支配する法則や構造といったものに、自然に目がゆくようになるわけです。
 

世の中を一皮めくって見ること、これが、数学の本質ではないかと思います。

私の好きな小説H.G. Wellsの「The Door in the Wall」には、不思議な別世界へ通じる緑色のドアが現れますが、数学は、そのドアのようなものです。私は5歳の時、庭の踏み石を引っ繰り返して現れたアリの巣の光景が、自然科学への興味の原体験になっていますが、世の中、一皮めくってみると驚くべき光景が広がっていることがよくあります。

そして、現代の便利な生活を一皮めくってみると、たとえば、符号や暗号といった形で数学が入り込んでいるのです。

認知不協和
 

自分が数学者なので、どうしても数学に偏った話になってしまいましたが、人文科学も世界の見方を変えてくれます。 

最近、ある経済学者の方から認知不協和という言葉を学びました。 これは、「人が、自身の中に矛盾する認知を抱えた状態のことで、これが不快を起こし、これを解消するために、人は何らかの行動を起こす」というものです。

ここで何らかの行動というのは、通常、「新しい認知を追加する(屁理屈をつけて自分を納得させる)」という形をとることが多いとされます。

例えば、イソップ物語に、「キツネとブドウ」という、高いところになっているブドウをどうしても取れないキツネが、「どうせあのブドウは酸っぱいに決まっている、誰が食べてやるか」と捨て台詞を吐く話がありますが、「ブドウを食べたい」という気持ちと、「ブドウは手に入らない」という事実が矛盾し、不快感を感じたキツネが、認知不協和を解消するために。「あのブドウは酸っぱい」と決めつける行動に出るわけです。

こうして、認知不協和という概念を導入してみると、これによって人間の行動が説明できる例が少なくないことが分かります。 

例えば、「増税しないと、財政破綻が起きるので、増税は避けられない」という事実は、増税に反対している人の心に認知不協和を引き起こします。 そこに、「増税をすれば景気が落ち込んで、却って税収は減少する」とか「増税しなくても、日銀の金融緩和で景気回復し、財政再建ができる」といったストーリーを用意する人物が現れ、認知不協和を解消したい人は、それを信じてしまう、というわけです。 

あるいは、「巨大地震などで原発事故が起きた場合の放射能汚染が恐ろしいので、原発再稼働は先送りしたい」、しかし、「夏場に電気が足りず、大停電が起きる可能性がある」という認知不協和を抱えた人の前に、「電力不足など起きない、本当は電力は足りており、原発を動かしたい電力会社が、停電テロを起こすことだけが、心配だ」というデマを語る人が現れるといった具合です。

このように認知不協和は、人々の合理的な判断の妨げになり、社会の不合理の原因になり得ます。

このように一つの概念を導入するだけで、いろいろな社会現象が一まとめに論じられそうです。 

学問を学ぶということ

学問を学ぶということは、世の中を観察、分析する術を身に着け、自らの世界を広げることに繋がります。 自らの知性を磨き、世の中を一皮めくって覗いてみませんか。 

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