我々が愚かなのはフェロモンを失ったからである

石田 雅彦

国会や首相官邸前にデモ隊が押し寄せ、アノニマスなるハッカー集団が日本を攻撃しています。彼らの動機や行動の是非はともかく、国家や政治、共同体、マスメディアへの不信感がこれほどまでに高まった時代もありません。

どうして我々はわかりあえないのでしょうか。ウソをつき、相手をダマし、攻撃することになぜこれほど血道をあげるのでしょうか。それは、我々が「フェロモンを喪失してしまった」からである。と、唐突に始めさせていただきます。


ご存じの通り、生物にはフェロモンという物質がある。我々ヒトでよく交わされるのは「あの女性はフェロモンがある」とか「フェロモンで異性を惹き付ける」というような会話で、特に性的な意味で実態が伴わずに使われることが多い。

性的なフェロモンの例で言えば、生糸を作る養蚕のカイコガのメスはオスを呼び寄せるために「ボンビコール(bombykol)」というフェロモンを出します。2004年に日本の研究者がオスの触覚の先にフェロモンの受容体を発見したんだが、このフェロモンは広大な森林の中でオスが発情したメスを探し出すために使われている。このフェロモンの化学式が、カギとカギ穴のようにカッチリ合って何キロも離れたオスとメスを引き合わせる、というわけです。

交尾期が短く限定された種にとって、有性生殖のためにオスとメスが広いこの世界でめぐりあう、というのはとても難しい。天敵にも狙われるだろうし、それはもう「婚活」どころの話じゃありません。だから、繁殖に適した絶好のタイミングに、同じ種同士のオスメスが確実に出会えるようにする「究極の出会い系サイト」がフェロモンなんです。

じゃ、我々ヒトの場合はどうなんでしょうか。

カイコガではフェロモンのセンサーは触覚の先にありました。脊椎動物では「鋤鼻器(じょびき。ヤコブソン器官)」というところでフェロモンを識別しています。この鋤鼻器は唇の奥のほうにあり、両生類にもあるしマウスにもある。生物には、視覚や聴覚、さらに嗅覚とは別の「鋤鼻系」という感覚経路がある、と主張する研究者もいます。ほ乳類のほとんどが鋤鼻器を持っている。

ところが、アジアやアフリカにいる旧世界ザル(狭鼻猿類)と我々ヒトを含む霊長類、アザラシやクジラ、ジュゴンなんかでは、子どもの頃だけあって大人になるとなくなるか、最初から退化してなくなってるか、あっても機能が疑わしい痕跡程度に残ってるくらいです。

鋤鼻器がないにも関わらず、代替的な嗅覚機能や脳への伝達経路、受け取る脳の部位が残っている旧世界ザルなどと違い、特に我々ヒトでは、フェロモンはもちろん経路もあるかどうかハッキリせず、脳内の部位もなくなっている。

最近になり、ヒトでもフェロモンの存在が疑われ、受容体もあるようだ、という研究(ドミトリー効果など)が出てきています。フェロモンは大脳皮質で知覚されないが情動反応に影響を与えている、という意見もあるんだが、まだ確かなことはわかっていないし、もしヒトにフェロモン物質や鋤鼻系の感覚器官があったとしても、明らかに他のサルとは違います。経路もハッキリせず、センサーもない。

では、どうして我々ヒトでは、フェロモンや鋤鼻系が失われてしまったのかと言うと、それは特に性的なフェロモンや鋤鼻器が邪魔になったからです。

性的なフェロモンでは、自分の意志とは無関係に否応なく相手を呼び寄せてしまいます。メスは自分の発情期や排卵日(受精可能時期)を相手に知らせてしまうことになる。オスにしても「やる気満々」状態は明らかにわかる。

ところが、ヒトの女性では発情期がなかったり排卵日をわざと隠すようにできています。自分でも排卵日がハッキリわからない場合も多い。生理の周期が不規則になることがあるからです。

なぜヒトが発情期を失ったり排卵日がわからなくなったのかというと、いろんな理由が考えられる。たとえば、父親が誰かわからなくさせて男性による子殺しの防止と同時に男性を子育てに協力させるためだったり、特定の時期に女性をめぐって男性集団が争わず協調するためだったり、さらには常に受精可能にしておいて単純に個体数を維持するためだったり、というわけです。

こうしたヒトの場合、そもそも発情期がないんだから性的なフェロモンは必要ないし、むしろあれば排卵日も隠せません。受精可能時期がフェロモンによってわかれば、男性は自分以外の子の養育を助けなくなるでしょうし、いろんな問題が起きる。

また、自分も排卵日がハッキリ予想できないので、女性も自分の子の父親は誰なのかわかりません。男性もあちこちで「浮気」するので遺伝的な多様性は保つことができる。女性に「ダマされる」男性ばかりが遺伝子を残せずに損をするわけじゃない。

フェロモンはウソをつけません。でも、態度や仕草、言葉ではいくらでもウソをつくことが可能です。ちょっと想像を飛躍させれば、ヒトはだから言語を獲得したのかもしれない。女性が男性を子育てやメイトガードのために惹き付け、男性が女性の発情期や排卵日を予測するために言語が発達したというわけです。さらに言えば、フェロモンと鋤鼻系がなくなったときから、ヒトは平気でウソをつくようになった。

ヒトのフェロモンや鋤鼻器は、繁殖において邪魔になり、いつしか退化していった、というわけなんだが、フェロモンは性的なものばかりではない。たとえば、複雑な巣と社会を作るアリが、フェロモンでコミュニケーションをしてるのは有名な話です。

働きアリは食べ物を発見すると、フェロモンを出しながら巣へ戻るんだが、そのフェロモンの残り香によってエサの場所まで仲間を導いている。また、東北大学(現・北大)の水波誠教授らの研究によれば、アリの脳には警報フェロモンを受信する部分があるらしい。これを使い、外敵が巣に進入してきたとき、フェロモンで仲間に知らせるというわけです。

社会的な生物では、フェロモンが組織を運営していくための「強制力」として機能させ、フェロモンによって利他的な行動をさせている、という昆虫の研究もある。こうした研究には枚挙にいとまがない(たとえば、女王バチが働きバチをフェロモンでコントロールして働かせたり、ハチの幼虫が自分を世話させるためにフェロモンを出しているらしい)。ようするに、これはフェロモンを使ったマインドコントロールです。

また、アリのように穴を掘って土の中で暮らしてるハダカデバネズミというほ乳類がいるんだが、連中は一頭の女王ネズミと数頭のオス以外は、ワーカーと呼ばれる「働きネズミ」と巣を守る「兵隊ネズミ」に分かれています。働きネズミと兵隊ネズミは、不妊になっていて子供を産めない。自分では子孫を残せず、ただ女王とオスネズミのために働いている。

ハダカデバネズミの働きネズミらの生殖機能がなぜなくなったのかについては、いろんな説があります。たとえば、生まれてから働きネズミらの鋤鼻器の発育だけが不完全になるからとか、女王ネズミが出すフェロモンが作用しているのかもしれない、とも言われている。こっちでは、マインドはおろかフィジカルにも影響を与えている、というわけです。

ところで、マウスの鋤鼻器を切除すると、いろんな異常行動をするようになります。性行動や攻撃行動をしなくなったり、またこの研究のように鋤鼻器を切除されたメスのマウスが、まるでオスのような行動をしたりする。

このように、フェロモンや鋤鼻器は、生物にとって繁殖や双方向のコミュニケーションのための重要な手段になっているのと同時に、社会的な生物ではフェロモンが利他的行動を強制する「恐ろしいこと」にも使われ、それがないとおかしな行動をすることもあります。

これは、ヒトにそれらがない(もしくはそれに「支配されていない」)ことを考えれば、とても示唆的です。ヒトの場合、性的なフェロモンを喪失し、鋤鼻系の機能も意識の上ではなくした。さらに、それと一緒にコミュニケーション手段としてのフェロモンも失ってしまった。

フェロモンから自由になって利他的行動を強制されなくなるなどした代わり、鋤鼻器が発育不全のハダカデバネズミになったのかもしれないし、鋤鼻器を切除されたマウスになったのかもしれません。

考えてみれば、ヒトの歴史は馬鹿と阿呆の化かし合いだ。政治や法、契約、信仰は、生まれながらにウソをつくヒトが考えた人工的なフェロモンなんだが、残念ながらそこにはさまざまなバイアスがかかり、不完全なものに過ぎない。ヒトがこんな生物に進化してしまった理由の一つが、フェロモンや鋤鼻器をなくしたことに関係しているのは間違いないでしょう。

石田 雅彦