「情報教育」が何故必要かを総括すべき時

松本 徹三

私は色々な問題について辻元さんと意見が合うようだ(辻さんの方ではそう思っておられないかもしれないが)。だから、辻さんの6月26日付の「情報化が招く社会の退廃」という記事や、7月3日付の「情報教育より国語、算数教育の徹底を」という記事には賛同する点が多い。唯一つ違うのは「それでも情報教育は必要だ」と私が考えている事だけだ。この事については、「教育現場におけるネット利用」と題する私の6月25日付の記事でも少し触れたが、今日はもう少し具体的な考えを述べたい。


何故私が「情報教育」を必要と考えるかと言えば、これから育っていく多くの人達に、ネットという「革新的な道具」を有効に使いこなし、「ここで受けた刺激」や「ここで節約出来た時間」を、自らの成長の糧にして欲しいからだ。

「わざわざ教育現場に取り入れなくても、放っておいても子供達や若者達はネットを使いこなすようになる。教育現場は、そんなことよりも、必要性が極めて高いにも関わらず子供達や若者達が嫌がる『基本的能力の訓練』に集中すべきだ」と考える人達は多いだろう。しかし、もし「情報教育」をやらなければ、まさに辻さんが危惧しておられるような「ネット依存の弊害とそれがもたらす社会的頽廃」が防げなくなってしまうのではないだろうか? つまり、辻さんと意見が合えば合う程、私はますます「情報教育」の必要性を確信するのだ。

具体論を進めるからには、便宜上「小中学生」のレベルと「大学生」のレベルに分けて論じたい(「高校生」はその中間だが、どちらかと言えば大学生に近い)。先ずは「小中学生」だが、私は常日頃から、この年齢層を対象とする教育の眼目は下記の二つだと思っている。

  1. 将来何等かの職業につき、社会の良き一員として生活するのに必要な「基礎能力」を身につけさせる事
  2. 自分がどういう人間であり、何に興味があるかを分からせ、幸せな生活が送れるようにする事

かつての「読み、書き、ソロバン」は、上記の1. に関係するものだった。しかし、これは、辻さんの言われる「国語と算数の重要性」とは少し違う意図によるもので、もっと実践的な理由によるものだったと思う。

計算の手段だった「ソロバン」は時代と共に殆ど使われなくなり、「書き」についても、最近は毛筆によるものは勿論、ペンで美しい字を書くことすらあまり必要ではなくなった。より早くより簡便に同じ目的を達成できる「道具」が現れたからに他ならない。勿論、「計算能力」や「文章をつくる能力」の重要性はいささかも減じたわけではないが、「道具」の部分は時代と共に変化するのは当然だ。

ところで、辻さんが「国語」を「算数」と並んで重視されるのは、「職業について生計を支える為にも、良い社会を作る為にも、『論理的な思考』が極めて重要だ」と考えられているからだろうが、この点については、私も全く同感だ。

私は大脳生理学には疎いが、言語中枢が大脳の中でも論理を司る部位に近いところにある事は容易に想像がつく。人間の言葉は、「痛い」とか「腹が減った」とか、「逃げろ」とか「やっちまえ」とか、「美味しいね」とか「好きだよ」とかいった原初の言葉から、次第に複雑なものに発展していったと思われるが、複雑化した部分の大半は論理に根ざしていると思われる。だから、本をよく読み、自らも長い文章が書ける事は、何時の時代でも極めて重要な資質なのだと思う。

しかし、その一方で、人間は視覚的なものから強い刺激を受ける。そして、これが、大脳の論理回路とは別のところで、人間の意思決定に重要な影響を与えるのもまた事実だ。だから、他人(商品の買い手や選挙民)の意思決定に影響を与えたい時には、長たらしい言葉よりは視覚に訴える方が効果的だし、短い時間で色々な事を理解したり記憶したりする為にも、画像やグラフを大いに利用するのが効果的だ。

人間の心は移ろい易く、世の中の仕組みや雰囲気はどんどん変わる。その一方で、人間には常に新しい技術を生み出す能力があり、それが変化のテンポを一層早くする。自分自身のしっかりした価値観を持っている人は、あまりに早い変化には違和感を覚えて抵抗するが、変化する世の中を上手く生きていくには、これはむしろ邪魔になる。それが立派な事なのかどうかは別として、結局は、人間はその時その時の環境に適応した生き方を学んでいくしかない。

かつて文明が成熟していなかった時には、人間は小さな音を聞き分け、些細なものの動きを感じ取る能力を持っていた。星座を見て季節を知り、瞑想で正邪を判別した。これは素晴らしい能力だった。しかし、現在の喧騒な都会の中では、この様な昔の人達が持っていた能力は殆ど役に立たず、新しく多くの事を学び、多くの事に馴れねば、まともな職業につくのは勿論、交通事故にあわずに道を歩くのさえ難しい。

結局のところ、現在を生きる人間には、「じっくりと考え論理的に決断を下す能力」のみならず、「他人の視聴覚に訴え、自らも視聴覚を通じて受けた刺激に素早く反応する能力」も、等しく求められているのだと思う。

だから、小中学生の時から、この両方に対応する能力を身につけさせる教育が望まれて然るべきだ。本を読む事、鉛筆で文字を書く事、パソコンやタブレットの画面上で多くの画像やグラフを見て記憶する事、キーボードを操作する事、九九を憶える事、筆算をする事、スプレッドシートの仕組みを学ぶ事、等々の全てが必要となる。忙しくはなるが、現代を生きていく為の「基礎訓練」としては、その何れもが欠かせぬという事だ。

しかし、私がそれ以上に強調したい事は、「我慢してでも身につけなければならない基礎能力」と「自らの興味に従ってどんどん深く入っていき、若いうちから独自の境地に達してしまうような能力」の両方が、甲乙付けがたく重要だという事だ。

人はそれぞれ異なり、各人に得手不得手があるが、「自分がどんな人間で、どんなことが好きか(従って上手く出来るか)」は、若い時には殆ど分かっていない。現在の教育は、明らかに国語や算数の能力を重視して、それが全ての価値観の中心に据えられているが、それが「たまたま自分が興味のない(従って不得意な)分野」であれば、その生徒は基本的に不幸になってしまう。これはフェアではないし、社会の為にもならない。

この様な生徒にも、必ず興味が持てる(従ってよい成績が出せる)分野がある筈だから、それぞれの生徒がそれを発見し、その分野での自分の能力を生かす手伝いをしてやる事も、教育の重要な責務であると私は思う。そして、その為には、範囲が無限と言ってもよい程に広がり、視聴覚による刺激を駆使して「隠れているもの」を効率よく見つけ出してくれるネットの能力が、極めて貴重なものになると思う。

大学生のレベルになると、教育が対象とすべき範囲は更に広くなり、その過程で得なければならない情報や知識も相当に深いものになる。従って、ネットの力を借りる必要性は更に高まる。しかし、光には影が常にあるように、ネットで容易に得られる情報の表面だけを撫ぜて、安易に結論を出してしまうリスクは常に存在するので、「ネットの正しい使い方」に対するコーチングがこれからはより重要になる事も、十分認識されなければならない。

大学で学ぶ事の基本は、

  1. 選択された一定の分野に関連する「知識と情報」を得る事
  2. それをベースにして、自らの頭で論理的に考え、何等かの結論を得る事。
  3. 上記の過程において、他の人達と議論し、お互いに納得できる結論を共有する事

の三つであろうと、私は常日頃から考えている(勿論、学科によっては、これに「演習」が加わることもあろうが)。

今はどうなっているか知らないが、私が在学した頃の法学部の授業は、教授が自分の書いた本の内容を教室で講義するのが主だった。議論はおろか質問さえもが殆どないこの様な授業は、私には全く意味のないものに思え、従って、殆ど授業に出た事はなかった(それでもちゃんと卒業できたのは、要するに当時の大学教育はその程度のものだったという事だ)。

本来、1. は教室で行う事ではないと私は思う。本を読む事ででも、ネットで検索する事ででもよいから、ここまでは学生があらかじめやっておくべきことであり、教室では「質疑応答」と「自分が考えた事の報告(プレゼンテーション)」と「学生間での議論」が主であるべきだ。教員の仕事は、学生に質問し、学生からの質問に答え、学生同士の議論をコーディネートし、必要なアドバイスをする事に尽きると思う。

「講義」は当然あるべきだが、一人の教授が少人数の学生の前で講義をするのは効率が悪すぎる。立派な業績を上げている先生や、分かり易い話をする事で定評のある先生(例えば池上彰さん等)が、放送回線や通信回線を通じて全国の多くの学生に対して講義するのが最も有益だ。

数多くの学生に対して講義をするのだから、こういう講義の場合は、当然それだけの準備をして、映像やグラフィックを駆使して然るべきだ。また、一方方向だけの講義にとどめない為にも、「放送回線とネットの組み合わせ」が当然考えられて然るべきだ。

結論を言うなら、「情報教育」或いは「教育現場へのネットの積極的導入」は、「道具としてそれを使う事」と「道具の正しい使い方を教える事」の両面から、あらゆる過程において「必要不可欠」のものとなると、私は確信している。これは、「情報教育不要論」を唱える人達や、そのマイナス面を危惧する人達の議論を、全て前向きに受け止めて、十分に咀嚼した上での私の意見である。