自分が分かっていないことを認識することが全ての始まり

2012年07月10日 07:06

松本徹三氏の「「情報教育が何故必要か」を総括すべき時」 を拝読した。一部共鳴できるところもあるが、私自身は情報機器を使った授業はしたくないし、多段黒板とチョークを使って授業を続けるだろう。その理由について、少し詳しく述べたいと思う。


私の授業の流儀

まず自分の授業について書いておこう。 

授業の準備は、基本的にノートは作らない。メモ程度のものをB5版の紙一枚に書くことがあるが、それ以上のものは作らない。 授業のときには、何も持たずに行く(メモも置いてゆく)。 

Steven G. Krantzという数学教育の専門家のベストセラー: How to teach mathematics にも同様の方法が推奨されているが、理由は簡単で、あまりしっかりとしたノートを作ると授業に自由度が減って面白くなくなるからである。なおこの本には、実に細々としたことまで、良い授業をする工夫が書かれているが、Krantzは数学者として一流とは言えないが、講演は大変上手で、成程と思わせるものがある。

ただ私の場合、何も持たずに授業に行くというのは、教養課程で出会った新谷卓郎先生(故人)の影響が大きい。新谷先生は尊敬できる方で、何も持たずに授業にやってきて、思いつくままに証明を始め、行き詰まると「うーん」と唸ってしゃがみ込み、時には、チャイムが鳴るまでそのまま、ということもあるという独特のスタイルの授業だった。 「うーん」と唸る姿に人間味があり、見ている学生も一生懸命考えて有意義だったし、とても感動的だった。 そして、授業はとても面白かった(先生のセミナーは、新谷先生が唸ったまま、深夜に及ぶことがあり、仕方なく塀を乗り越えて帰ったという逸話がある)。 数学者とはこういう人のことをいうのだ、と初めて知った。

新谷先生の影響で、私も基本的に思いつくままに証明を始めて(勿論、多くの証明はあらすじくらいは覚えているが)学生の目の前できれいに証明してみせることにしている。  

実は、これは特殊なことではなく、こういうことは、学生の頃から、繰り返し訓練されている。 つまり、学生のセミナーは基本的に何もメモを持たずに90分話すことが求められる。 これは音楽家が暗譜をするのと同じで、一言一句覚えるわけではないが、流れを把握しておくと、あとは自動的に出てくるのである(演奏家は何万という音符を短時間で覚えられる)。

要は、自由さを失うことなく、学生の反応を見ながら、その場で実演してみせる。 

講演の場合も同じで、簡単なメモを用意して、あとは勢いに任せて話をしてゆく。時間の調整も自然にできる(講演の場合は会場の都合でパソコン画面を使うことはあるが、黒板を使うことが多い)。

このように授業にしろ、講演にしろ、その場の雰囲気に合わせて、自由に変化するのが、良い授業、良い講演だと思う

自分が「分かっていない」ことを認識することが全ての始まり

要するに数学の授業は、学生の目の前で、論理の鎖を繋いで見せる、実演型のものである。学生は、ノートをとることと同時に、その瞬間瞬間に頭を働かして、実際に論理を組み立ててゆくことが求められる。 パワーポイントなどは、お話のあらすじを述べるのには非常に強力な道具だが、ノートを取るには、少々不便だし、細かな論理を組み立てるのには向いていないように思う。どうしても学生が受け身になってしまうからだ。 

情報機器の問題点は、予め筋立てが決まってしまい、自由度が減ることもあるが、実は、最大の問題は、何となく分かった気になってしまうことである。

問題の本質は、「学生が分かっていないこと」ではなく、「学生が分かっていないことが自分で認識できないこと」にある。自分が分かっていないことは、自分が能動的に頭を動かして初めて認識できるものなのだ。

この問題は極めて大きい。 情報機器の問題点は学生が能動的に考えることの妨げになり易いことにある。 例えば、行列式を教えるとき、行列式の定義をきちんと分からなくても、基本変形などを実演して、行列式の求め方に習熟させることを中心に授業を進めると、多くの学生は、行列式のことが、何となく分かった気になってしまう。 
ところが、リアクションペーパーで、学生に、「行列式の定義を書いてください」と言うと、ほとんどの学生が、書けないのである。 微積分も同じで、微分の計算は自由に行えるのに、微分の定義が書けない学生は実際にはかなり居るし、さらに多変数の微積分となると、全微分と偏微分の違いをきちんと意識している学生は、殆どいないといったことになる。 概念の本質を理解させるには、論理に立ち入らなくてはならない、さもなければ、学生は、行列式、微分といった基礎概念についてきちんと理解しないままに終わる可能性が高くなる。

現実には情報機器を使って、数学の授業をしている大学の先生は殆どいないだろうと思うが、数学の授業に情報機器を使う際の問題点は、正に「分かっていないことが分からなくなってしまう」ことなのである。 

「分かっていないこと」をはっきりさせることが如何に大事かを示す好例として、私の尊敬する大阪大学名誉教授の藤木明先生の論文の読み方を紹介しよう。 

藤木先生の方法というのは、自分が完全に分かった箇所を黒いマジックで塗りつぶしてゆくというものである。 この方法の利点というのは、自分が納得できない箇所がどこにあるのか、即ち、「自分が分かっていない部分」を見逃さないという点にある(しかし、読み終わる頃になると、他人が見ても何が書いてあったのかさえ分からない!)。

私の場合は、ずっと論文の論理を頭で組み立てては壊し、また組み立てることを繰り返すことで、納得する方法で、読み終わったところは捨ててしまう。 

アリの這い出る隙間もない鋼鉄の論理というのは、こういった注意深さから生まれるのであって、「何となく分かった」ということとは一線を画すものである。

ひょっとすると数学は特殊な学問であり、他の多くの学問では、鋼鉄の論理を構築するよりも、あらすじを理解することが大事なのかも知れない。しかし、鋼鉄の論理を構築することにより、初めて見えてくるものは必ずあるはずである。  

こういった理由で、私は多段黒板とチョークを使った授業に拘るのである。 急がば回れという諺もあるではないか。

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