教育は競争の装置である

池田 信夫

大西宏氏など何人かの人が批判しているので、内田樹氏のブログ記事を読んでみた。テーマである「いじめ」の話はともかく、例によってペダンティックな飾りとして持ち出す「思想」的な話が間違いだらけだ。彼はこう書く:

学校は本来は苛烈な実社会から「子供を守る」ことを本務とするものです。それは学校というものの歴史的発生から明らかだと思います。ヨーロッパで近代の学校教育を担った主体のひとつは、イエズス会ですけれど、それは「親の暴力から子供を守る」ためでした。


イエズス会が「親の暴力から子供を守る」ために教育したという根拠はどこにも書かれていないが、歴史的な常識に反する。少なくとも内田氏より信頼に値する哲学者であるミシェル・フーコーはこう書いている:

イエズス会修道士学校では、一般的な形態は合戦および敵対の形態であって、労働・知識習得・学級編成は、双方の軍営の対決を通して、競争の形式で実施されていた。(『監獄の誕生』p.151)

近代の公教育はもともと、兵士の養成のためにつくられたものだ。その主要な目的は、教育内容よりも規律=訓練(discipline)をたたき込むことにあった。いまだに学校が軍隊的な行動を子供に学ばせるのも、そのためである。フーコーは西洋の近代国家が何よりも戦争に最適化した暴力装置であることをいち早く指摘したが、これは最近の歴史学で実証されつつある。

いうまでもないが、自分の命をかけた戦争より苛酷な競争はない。よしあしは別として、教育は競争のための訓練機関なのだ。内田氏のいう「マルクスの『資本論』の中の19世紀イギリスの児童労働についてのレポート」も、彼の意図とは逆に、児童労働を推進すべきだという論旨である。これも私のブログでも以前に指摘したことだが、マルクス研究者にとっては常識に属す。

内田氏は「子供を競争から隔離せよ」といいたいようだが、子供が一生、競争から無縁でいられるならそれもいいだろう。しかし子供は、18歳で大学入試という競争にさらされ、社会に出たら市場の競争にさらされる。資本主義社会で競争と無縁な職場は――役所や内田氏の勤務していた女子大を除くと――ほとんどない。子供のときだけ競争から「保護」しても、子供を一生、競争から隔離することはできないのだ。

むしろ日本人が理解しなければならないのは、西洋の国家も株式会社も学校教育も、本来は暴力装置の一環としてつくられたという事実である。ファーガソンも指摘するように、西洋が爆発的な経済成長を遂げて世界を制覇した原因は、数百年にわたって続いた激しい戦争による制度間競争なのだ。

内田氏のいうように、競争も資本主義も原発も拒否して仲よく生きようというのも一つの生き方だが、それは資本主義の実現した富を放棄することと同義だ。電力とブロードバンド通信を潤沢に使ってブログを書けるような生活が、競争なしでいつまでも続けられると思ったら大きな間違いである。