教育の格差問題-教育の機会平等とは何か?

2012年08月13日 09:39

我が国は、天然資源には恵まれていない。従って、人的資源の質と量が、国力を左右する。これは、我が国の人的遺伝子資源を如何に効率的に活用するかという問題、即ち教育問題と等価である。  

まず、現在どのような人材の育成が望まれているのかを知る必要がある。

現在のように不確実性が高く、変化の激しい世の中では、知識はすぐに陳腐化し、そのため、常にスキルアップが要求される。従って、高い学習能力を持つ自立型人材、創造性、問題発見能力、問題解決能力を持った人材が、現在最も必要とされているといえる。生き残るためには、常に学習を続けなくてはならない。 生涯学習社会の到来である。

イギリスのブレア政権(1997-2007)が、教育を重視し、「教育、教育、教育」というスローガンを掲げたのも、生涯学習社会への移行を念頭に置いたものだったと言われる。

それでは、このような学習能力の高い人材を如何にして効率的に育成するべきなのだろうか。

ここでは、「学力と階層。苅谷剛彦(朝日文庫)」の内容を元に、教育機会の平等をどう実現し、効率的な教育資源の配分を行うべきか、考えたい。


階層の二極化と教育資本格差

まず「学力と階層」の主張を簡単にまとめておこう。

この問題を考える際に問題になるのは、教育資本の格差による、格差の固定化の問題である。つまり、親の低収入、劣悪な家庭環境などの教育資本のハンディにより、学習意欲を早期に失う子供が増えているという問題である。

労働の二極化により、高スキルかつ環境適応力の高い労働力の価値は高くなる一方、大部分の労働者の労働の価値が下がっている。つまり、新興国にアウトソーシング可能であったり、IT化で代替可能な労働の価値下がる。 その結果、所謂、階層上位が少なくなり、階層中位も減少、階層下位の部分が増大し二極化してゆく。 フリーター、非正規雇用の増大により、階層下位は生涯にわたり学習機会を失いつつある。

簡単にまとめると

(1) 階層により、学習意欲の格差(インセンティブ ディバイド)が起きており、階層下位の子供は、その家庭環境から早期に学ぶ意欲を失っている。

(2) 学歴は肩書だけ、大学で学ぶことは社会では役に立たない、といった見方が存在していたところに、学歴社会型の成功モデルが崩壊し、さらに階層下位の学習意欲が減退している。

というのが、「学力と階層」の主張である。

我が国では、非正規雇用が拡大し、所得格差が拡大していると言われる。格差が拡大することは、労働の二極化する現状では、ある程度仕方のないことだろう。しかし、それが次の世代まで受け継がれ、階層が固定化されるとすれば、それは望ましいこととは言えない。なぜなら、階層下位にも優れた素質をもった子供は存在する可能性があるからだ。

学歴インフレでは教育格差は解消しない(フランスの事例の考察)

フランスは革命後、教育機会の拡大と平等を目指した。このため、20世紀を通じ大学の学生数は70倍に増え、大学進学率は、40%まで拡大した(フランスの大学の授業料は、ほぼ無料である)。教育機会の拡大により、社会の流動化つまり、社会の階層を行き来するエレベーターのような役割を教育に期待したのである。 

しかし、「フランスの学歴インフレと格差社会、能力主義という幻想:マリー・ドュリュ・ベラ、林昌宏訳、明石書店」によれば、このような教育の長期化は却って、教育格差の拡大を招いたとされる。 

即ち、グランゼコールと呼ばれる一部のエリート校が、厳しい選抜により特権階級を生み出す一方、その他の大学はバカロレアと呼ばれる大学進学資格試験を通過すれば、無選抜になり、教育水準は低下した。

また、1959年から1968年に生まれた若年層のうち、教職や自由業に就く親をもつ生徒の約21%がグランゼコールに進学する一方、単純労働者を親にもつ生徒のうちグランゼコールに進学したものは1%に満たなかった。

つまり、フランスにおいては、生まれた家庭環境、経済環境により、教育機会が制限される傾向にある。さらに、学歴インフレは、親より高い学歴を持つ子供が、その学歴にふさわしい仕事に就けないという事態を招いた。

また、社会的同類婚(同じ階層に属する者どうしの結婚)により、階層が固定化されているという(ダニエル・コーエン、「迷走する資本主義」新泉社)。 

このように大学の大衆化といった、教育機会の単なる拡大だけでは、教育格差は解消しない。  

教育における選択と集中

苅谷剛彦氏の言うように、学習意欲のインセンティブディバイドが起きているとすると、現在の日本における非正規雇用の拡大は、階層下位の固定化を促進する可能性がある。その意味で、

「非正規化圧にさらされている若年労働者が「学校時代に身に付けるべきことを身に付けないまま、職業に就いてからも十分な職業訓練の機会を与えられない」ままであれば、いずれ彼らを支援するための社会的コストは破滅的な規模のものになるだろう。
私たちはあらゆる手立てを尽くしてそのような事態の到来を防がなければならない」

という内田樹氏の意見は(「学力と階層」解説 参照)は一定の説得力を持つ。確かに学習資本に恵まれない子供たちの支援は必要だろう。

しかし、学習能力には、明確に大きな個人差が存在し、全ての子供に創造性や、高い学習能力を期待することは全く不可能である。 上に挙げた、フランスの事例でもわかるように、出来るだけ多くの人たちに高等教育を受けさせるという方法は、本来、高等教育を受ける適性のない人たちに高等教育を受けさせることになり、逆に非効率なのだ。

従って、階層下位に属する家庭に育ったために、学習資本に恵まれない子供すべてを支援することは無意味であり、逆効果だろう。 

学習資本に恵まれない子供たちのうち、優秀な素質を持った子供にのみ、支援を行うべきだろう。具体的には、小、中学生全員の知能テストおよび学力テストを行い、特に優れた生徒(全体の上位1%程度に入る学生)で、かつ家庭環境に恵まれない生徒に奨学金などの支援を行うというのが、効率的だろう。 

こういうことを言うと、「差別だ」と言う人もいるだろう(注)。しかし、教育機会の平等とは何だろう? 全ての人たちが高等教育を受けるのは、良いことなのだろうか? 個人個人が、その素質を最大限生かせるようにすることが、真の教育機会の平等だろう。

私は教育バウチャー制度や、学校選択制といった考え方には反対だ。全ての生徒を同一に扱うのではなく、能力別クラスなど、画一的ではない、もっと生徒の素質に応じた教育を早期から行うべきだ。 学力差が拡大すること自体は問題ではない。 

現在、日本の大学は全入時代を迎えているが、日本の大学進学率は、学力低下に悩む、フランスの大学進学率を10%も上回っている。これはもっと引き下げてもよい。 全ての人の学習能力を教育によって高められるというのは、幻想に過ぎない。教育問題においては、遺伝子資源の最大限の効率的利用という科学的な考え方に立つべきだ。

教育を効率化するためには、選択と集中が必要なのだ。 

個人の能力差による、社会の階層化は止むを得ない。階層の存在そのものを否定するのではなく、階層の間の移動を確保するのが、機会平等だ。 最早、国が個人の生活をある程度保証するべきだといった考え方はすべきではない(「21世紀は個の時代」参照、内田樹氏のような、非正規雇用そのものを否定するような考え方は無意味だ)。 

我々は能力主義社会を目指すべきではないだろうか。

(注)こういう反応を予想するのは、実際に高校の先生、中学校の先生に伺うと、「だれでも適切に教えれば、100点が取れる」といった考え方が未だに一般的であることに驚かされるからである。これは日教組の考え方なのだろうか? こういった教育社会主義のような考え方には疑問を感じざるを得ない。実際には、旧ソ連のような、社会主義国では、音楽や、数学において、厳しい選抜による英才教育が盛んであったことは注目に値する。

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