日本の教育システムの問題点

2012年08月15日 09:41

韓国大統領の竹島訪問を契機に、韓国批判が高まっている。これは結構なことだが、韓国大統領も述べているように、日本の国力が低下していることは否定できない。つまり国力の低下が隣国の傍若無人な行動を可能にしているのではないだろうか。

我々は自らの足元をもう一度点検する必要はないだろうか。 ここでは教育のシステム上の問題点を指摘したい。


日本の大学生の学力

私の実感としては、日本人全体として見た場合、その知的レベルは、多くの先進国の中では悪くないレベルだろうと思う。 

しかし、日頃接している大学生(それなりに有名な大学だと思う)に関して言えば、論理的思考力、抽象的思考力、文章力が極めて弱い。計算は得意でも

実数直線上で定義された全ての点で微分可能で、導関数が常に正の関数は、単調増加であることを示せ。

というような問題を出すと、学生の半分以上ができない。また文章力が非常に弱く、答案が理路整然と書けない学生が多い。 

潜在的な学習能力を測定する海外の大学入学資格試験

それでは、海外の大学生はどうなのだろうか? フランス、スウェーデンの大学入学資格試験を見てみよう。

まず、フランス:以下の問題は、フランスの大学入学資格試験(バカロレア)の問題である。 哲学は4時間の記述問題で、何題かの設問の中から一つを選んで記述する(理数系も必須、持ち込み不可)。 

理数系(哲学) 真実を探す義務が私たちにはありますか?

社会経済系(哲学) 働くことは単に役に立つということなのでしょうか? 

次にスウェーデン:次の問題は、スウェーデンの大学入学資格試験(マトリキュレーション試験)の問題である。

(物理)凹面鏡の焦点距離、および格子解析における線間の距離はどのようにして決定することができるか、適切な図を用いて説明せよ。

(化学)次の概念について意味を説明せよ。(1) 元素 (2) 化学結合 (3) モル (4) 両性イオン (5) 恒定沸点結合 (6) ラセミ結合 

一見して分かるようにこれらの問題は、理路整然と解答を書く、高い論理能力が必要になる。因みにマトリキュレーション試験の目的は

「潜在的な学習能力を測定すること、大学での学習が成功するに足りる学習能力をもっているかどうか、大学教育を完遂できるかどうか、多くの優秀な学生を選抜できること」

とされる(「大学入試における総合試験の国際比較」藤井光昭・新井克弘編著、多賀出版2002)。全く解けない問題を出題しているわけではないはずだから、フランス、スウェーデンの大学生は、上のような問題をそれなりにこなす能力があるのだ。 これは前述した日本の大学生とは雲泥の差があると言ってよい。

現在のように不確実性が高く、変化の激しい世の中では、知識はすぐに陳腐化し、そのため、常にスキルアップが要求される。従って、高い学習能力を持つ自立型人材、創造性、問題発見能力、問題解決能力を持った人材が、現在最も必要とされているといえる。

このことを考えると、フランス、スウェーデンの大学入学資格試験は、現在の状況に合っている。 一方、日本の大学入試は、現在の状況に合っているとは言えないだろう。

大学進学率では、日本はフランス、スウェーデンを上回っているが、大学生の質では、どうだろうか?  おそらく、上のような問題を出題すれば、有名大学の生徒といえども、簡単に解けないだろう。大学入試の差が、トップレベルの人材の育成の大きな障害になっているような気がしてならない。

文科省の考える教育の機会平等

このように人材の育成が上手くいっていない原因はなぜだろうか?  これを読み解く鍵が苅谷剛彦「教育の平等-大衆教育社会はいかに生成したか」(中公新書)にある。

この本によれば、戦後、文科省は、教育の機会平等の実現に邁進した。 ここで、共通化と差異化の二律相反が起きる。 即ち、学習指導要領などにみられるような、全国津々浦々、同一の教育空間を実現するという教育の標準化と、能力別学級といった、個に着目した能力主義的な教育のどちらを取るのかという問題である。

そして予算の制約など、さまざまな要因と、個人の差異を際立たせないことがよしとされる「村社会的な考え方」から、能力主義的な教育ではなく、全国一律の教育空間の実現に邁進することになったのである。 即ち、教材(教科書)、教員の配置などの均等化、即ち、面の平等に重きをおいた教育政策がとられることになった。

その結果、個の確立という教育目標は達成されていない、というのが現状だろう。

能力主義教育の必要性

現在の世界経済では、国民の平均的な知的レベルより、トップレベルの人材の層の厚さが国力を左右するように思われる。私は実感として、トップレベルの人材の層が他の先進国と比較して薄いと感じている。とくに団塊の世代より下の世代では、トップレベルの人材の層は薄いと感じる。 我々は、自らの実力が不足していることを正直に認めるべきだろう。トップレベルの人材の効率的育成が急務であり、そのためには、大学入試改革とともに能力別クラスなど、個人の素養を最大限に伸ばす教育をすべきだろう。 教育資本をトップレベルの人材に傾斜配分するべきではないだろうか。

能力主義教育は、社会にさまざまな軋轢を生むだろう。 しかしながら、能力主義教育に舵を切ることが、日本の将来にとって必須だと、私は考える。

あとがき

最近、今回の芥川賞受賞作、鹿島田真希の「冥土めぐり」を読んだ。この小説は、選評で、高樹のぶ子が「経済的な豊かさを剥ぎ取られてもなお虚飾と虚栄を捨てられない浅ましい人たちを描くことで、経済力以外のアイデンティティを持ち得ていない日本の縮図としても読める」と書いているように、零落してもなお、経済的な豊かさが忘れられない、元スチュワーデスの母親と、金があれば留学してすごい人間になれるとうそぶいている無職の弟と、夫の病という現実を受け入れ、前向きに踏み出そうとしている主人公夫婦のコントラストが、切なく感じられる小説である。 

この小説を読んで、私は「日銀はもっと大胆な金融緩和を行って円安誘導するべきだ。リフレで日本経済は復活する」とか、「日本の技術は優れている、韓国や中国は、日本の技術なしにはモノづくりができないじゃないか」と言っている人たちのことを想起した。

我々は、自らの実力を見誤っていないか? 中韓を非難するのは結構だが、まず自らの足元を見るべきではないか。

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