事実と印象の一例

池尾 和人

以前にも一度述べたことがあるが、同じ事実・統計データでも、見せ方によってずいぶんと異なった印象を与えるものである。したがって、あらゆる現象に関して、多面的に検証し、それに関する主張の頑健性をチェックする必要がある。一例として、先進各国の中央銀行のバランスシート規模をとりあげてみる。


次の図は、本日(8月23日)の『日本経済新聞』朝刊の星岳雄さんとA・カシャップ氏の「経済教室」の記事から引用したものである。この図から、「世界金融危機の後、思い切った緩和政策をとった他国の中央銀行と相変わらず消極的だった日銀の差は顕著だ」と述べられている。

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他方、次の図は、同じ『日本経済新聞』の8月19日(日曜日)朝刊の記事から引用した図である。また、ほとんど同じ内容の図が、セントルイス連銀の『レビュー』に掲載されたPIMCOのモハメド・エルエリアンの記事(pdfファイル)の中にも掲載されていたので、合わせて引用しておく。

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後者の2つの図から読み取れるのは、量的緩和政策の終了後においても、対GDP比でみた日本銀行のバランスシート規模は一貫して大きいということである。これは、日本が米欧に10年前後先だって金融危機に陥って、いち早く非伝統的金融政策の採用に追い込まれていたことを考えれば当然である。

また、今般の金融危機はしばしば世界金融危機とは呼ばれるけれども、実際に金融危機に陥ったのは、米国と欧州である。この意味で、むしろ大西洋(Atlantic)金融危機と呼ぶのが正しいともいわれる。日本は、リーマンショック後の世界的な貿易活動の収縮(Great Trade Collapse)によって激しい景気の落ち込みを経験したが、今回は金融危機には陥っていない。したがって、2007年以降の時点で、金融システム危機対策として流動性の供給を増やす必要性は、日本にはなかった。

ただし、ある意見交換会の席上で伊藤隆敏さんが、「リーマンショックによって人々のインフレ予想が不安定化していたので、危機対策の必要性はなかったとしても、このタイミングをとらえて思い切った追加緩和を実施していれば、人々のインフレ予想を引き上げ、デフレ脱却の契機と出来た可能性がある。惜しい機会を逃してしまった。いまから同じような緩和をしてもあまり効果的ではないだろう」という趣旨の発言をされていた記憶がある。

きわめて相場を張ったような金融政策のすすめだとは思うが、論理としては理解可能な話である。グリーンスパンであれば、そうした相場を張ることをいとわなかった可能性がある。この意味では、かつてのFRBに比べれば日銀は消極的だといえるのかもかもしれない。しかし、中央銀行が相場を張ったような金融政策運営を行うことが、中長期的にみて本当に正しいのかどうかは、全く別の問題である(金融危機の前と後でのグリーンスパンに対する評価には、手のひらを返したようだという表現が文字通りに当てはまる)。

[追記]
誤解を避けるために、あえて追記しておきますが、昔の記事で明記しているように、ゼロ金利制約下にあるときにベースマネーの供給量とか中央銀行の資産規模とかの「量」が金融緩和の指標になるわけではありません。注意深くグラフを見ていただければ分かると思いますが、2011年の半ばから米FRBの対GDP比でみた資産規模は、緩やかですが、低下しています。本当に「量」が問題なら、この事実をもって米FRBは引き締めに転じたといわなければなりません。

もちろん、そんなことはありません。QE2の終了後、米FRBは、ベースマネーの供給量をこれ以上増やすなという共和党サイドのからの批判もあって、緩和策として保有する短期債を売却し,同額の長期債を購入するというオペレーション・ツイスト(Operation Twist)を採用しています。オペレーション・ツイストをいくらやっても、中央銀行が保有する資産の構成が変化するだけで、「量」は増えません。その狙いは、長期金利の低下を促すことです。

緩和の程度は、まだゼロになっていない長期金利とかリスク資産の利回り(のうち、リスク・プレミアム部分)がどれだけ下がったかで判断されるべきものです。問題は「量」ではなく、やはり「金利」なのです。

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池尾 和人@kazikeo