飯を炊く --- 山中 淑雄

アゴラ編集部

正岡子規の「病牀六尺」の七十三に、今でいえばコンビニの弁当屋のようなアイデアが出ている。子規は病床にあり、母の八重と妹の律の介護を受けていた。

家庭の事務を減ずるために飯炊会社を興して飯を炊かすやうにしたならばよからうといふ人がある。それは善き考である。飯を炊くために下女を置き竈を据ゑるなど無駄な費用と手数を要する。われわれの如き下女を置かぬ家では家族の者が飯を炊くのであるが、多くの時間と手数を要するが故に病気の介抱などをしながらの片手間には、ちと荷が重過ぎるのである。(中略)それゆえ飯炊会社といふやうなものがあって、それに引請けさせて置いたならば、至極便利であらうと思ふが、今日でも近所の食物屋に誂へれば飯を炊いてくれぬことはない。たまたまにはこの方法を取る事もあるが、やはり昔からの習慣は捨て難いと見えて、家族の女どもは、それを厭ふてなるべく飯を炊く事をやる。

この後続けて、「暇なときはそれでもよいけれど、人手の少なくて困るやうなときに無理に飯を炊かうとするのは、やはり女に常識のないためである。そんなことをする労力を省いてほかの必要なる事に向けるといふ事を知らぬからである。」と今の世であればさしずめメールショービニストと非難されかねないことを平気で書いている。これが書かれたのは、明治35年7月24日。この約2か月あとの9月19日に、子規は亡くなった。

明治35年に根岸のあたりでどれほど照明用ではない都市ガスの普及がなされていたのか、ちょっと調べただけではわからなかったが、恐らくまだほとんど普及されてはおらず、毎日竈で火を起こし火加減を見ながら飯を炊くことは大きな労力を要したに違いない。

次ははっきりした年はわからないが、時代が飛んで大正の半ばくらいと思える時代。小島政二郎の「眼中の人」に、菊池寛に頼まれて女中を世話した話がある。連れて行ったときに菊池が非常に喜んでくれたのに、二、三日したらその女中が出て来てしまった。その理由を問うても、石のように黙って返事をしなかったが問い詰められて、(菊池)先生が怖い、という。しかし、本当の理由は意外にも、朝、冷たい御飯を食べることが苦痛だというのだった。少しこの先、昔者の小島の母が女中を諭すところから引用してみよう。

「その代りお前さん、晩は暖かい御飯が頂けるんだから、差し引き同じことじゃないか。そうだろう?」
「——」
菊池は四国生まれ、奥さんも四国生まれだから、朝が冷たい御飯で、夜が暖かい御飯の上方流なのだろう。女中は川越の生まれゆえ、関東流に朝暖かい飯で、晩が冷たい飯に馴れているのだろう。どっちだって同じことだろうに、こいつァ女中の世話もウッカリ出来ないと思いながら、私はいかにも理由の薄弱なのにただ困るばかりだった。

このエピソードで知れることは、飯炊きは通常1日1回だということである。小島の実家は上野の江戸時代から続く商家で、そこでも1日1回の飯炊きだったという記述はないが、それで驚いている様子はないのでそれが習慣だったのであろう。東京瓦斯の年表を見ると、昭和2年にお客様件数100万件突破、とあるが、小島や菊池の家で都市ガスが使われ始めていたかはわからない。もちろん、川越の女中の実家では都市ガスの導入はずっと後であろう。

関東と関西で1日1回の飯炊きが朝と夜で違うというのはどういうことなのだろうか。日の出日の入りの時間が違うとはいえ、それによって人々の習慣を変えるほどのことでもない。

さて、さらに時代が飛んで実用に耐える電気炊飯器が登場したのは昭和30年。開発したのは東京の町工場である光伸社の三並義忠氏とその家族で、この開発の物語はNHKのプロジェクトXによって広く知られることとなった。開発に協力し日本初の自動式電気釜として売り出した東芝は、東芝1号機物語にこう書いている。

日本人の主食であるご飯を釜で炊くということは掃除、洗濯とともに、主婦の家事労働の一つであり、経験に基づいたノウハウによりご飯のでき栄えが左右されるものだった。タイムスイッチを使って、希望の時間にご飯が炊ける電気釜の出現は、炊飯を単に自動の電気釜に変えただけでなく、主婦の家事労働にかかる時間を大幅に軽減し、生活様式にも大きな変化をもたらした。

これに添えられた電気釜の写真があるが、見覚えがあり大変懐かしい。食べ盛りの男の子を4人も抱えていた我が家では、早速購入したのだろう。そのころから飯炊きは家事労働とは言えなくなった。さらに町のコンビニや弁当屋、ターミナル駅のデパ地下など、何でも手軽に買える時代になってしまった。

こうなるまでに我々は遠い道を歩んで来た。原発再稼働反対運動に参加している人達に、もちろん飯炊きに限ったことではないが、いつまで今の楽な生活が続けられると思っているのかを問いただしてみたい思いに駆られる。

山中 淑雄