世界は「東京中心」には動かない!―「霞ヶ関」外交の限界

北村 隆司

政治主導を放棄した野田政権も、今回の日中、日韓騒動を直接経験して、しぶとい政治家が外交の指揮を執る多くの国の外交とは比ぶべきもない稚拙な官僚外交に驚いたに違いない。

日中関係と言えば、それとは比較にならない難問であった1972年当時の中米関係を、曲がりなりにも今日の関係に持ち込むには、キッシンジャー・ニクソンコンビ対周恩来・毛沢東コンビと言うたぐい稀な智恵者コンビの活躍があった事を忘れてはならない。


米国と外交関係を持たない当時の中国は「文化大革命の終結」「ベトナム問題を含む中米問題解決」「中国は米国の責任と富を分配させる体制を学ぶ用意がある」等々のシグナルを、毛沢東が自ら中国在住のジャーナリストのエドガー・スノーを使ってニクソン大統領に送り続けたと言う。

その頃の中ソ関係は、珍宝島を巡っての大規模な軍事衝突や新疆ウイグル自治区での軍事衝突勃発など、中ソの全面戦争や核戦争にエスカレートする重大な危機に瀕していた。

文化大革命の最中にソ連との関係が決定的に悪化した中国からの信号を敏感に察知したキッシンジャーは、中国がソ連に支配されれば米国の国益に反すると言う判断に立ち、中ソ衝突の場合は米国は中立の態度を取るものの、最大限中国寄りの姿勢を取るとのヒントを中国向けに発していたと言う。そして、何とかベトナム戦争から手を引きたいアメリカの思惑が重なり、突然のニクソン北京訪問と言う、世界を驚かせた手段に出たのである。

ニクソン訪中で対米関係改善に取り掛かった中国は、国内では4人組の台頭や劉少奇、林彪などの反対派との確執を抱え、ソ連との間には、戦闘に迄発展した珍宝島などの領土紛争が存在していた。

中国側には、帝国主義の時代に不当に領土が奪われたという被害者意識があり、人口の多い中国に対する恐怖を持つソ連は、米国を自国側に巻き込む為に、ドブルイニン大使が頻繁にキッシンジャーと連絡をとり、中ソ領土紛争の事態の推移を細かく説明していたと言う。

1969年に戦闘行為に発展した中ソの領土紛争も、2008年の東部国境画定に関する議定書で、ロシア側が実効支配していた3島を全て中国側に譲ると言う、ロシアには考えられない大譲歩で解決した。

先日夕食を共にした「キッシンジャー回想録」の解説役を務めた友人の話によると、キシンジャーは「米国の価値観を広めようと言う観点から戦おうとする人々には敬意を表する。だが、外交政策は目標と共に、そこにいたる手段をも定めなければならない。若し、その手段が国際的な枠組み、或いは自国の安全保障上の重要と考えられる外交関係の許容範囲を超えた時には、選択をしなければならない。我々がしてはいけないことは、その選択の幅を狭める事である」と述べていたと言う。

この話を聞き、誕生間もない中国の外交が、既に日本の外交水準を凌駕していた事に驚くと共に、外交は外交官にしか出来ないと言う神話に騙され続けた為に、戦後67年も経ながら、一衣帯水の関係にある中韓両国との不幸な過去も清算できず、ドイツの様に、敵対関係にあった関係諸国との本物の和解も果たせずに過ごして来た日本外交の失敗を、改めて考えさせられた。

過去の事件を批判する事は、終わった競馬の予想記事の様に、糞の役にも立たない事は理解しているが、どうしても過去に触れたくなる。

今回の想定を超える騒動は、鳩山首相の取った対米外交手段が、国際的な枠組みや日本の安全保障上や外交関係の重要な許容範囲を超えてしまった事を、中国側が充分計算した上での行動であろう。本来なら、鳩山氏は私財を投げ打ってでも、日本の被害を賠償すべき人物である。

又、石原知事や霞ヶ関のやり方は、「日本の価値観を広めよう」と言う目標だけに偏り、目標を達成する手段が外交の許容範囲であるか否かの分析を怠った政局的な外交であった事は間違いない。だからと言って、つい先日まで英雄扱いしていた石原知事を、今になって戦犯扱いする一部のマスコミや識者の無節操ぶりは頂けない。

それは兎も角、ネット時代の今日、相手を読めない霞ヶ関には、世界を動かせる智恵も力も無い。又、金で解決して来たこれまでの日本外交を続けるなら、自らその許容範囲を更に狭めるだけで「金の切れ目が、縁の切れ目」を思い知らされるだけである。

外交に限らず内弁慶の官僚支配は、確実に国民の将来を侵食し続けている事実に国民も目覚める時期である。

2012年9月18日 北村隆司