エコロジーとは何か

2012年09月23日 15:30

池田先生の「「自然」という贅沢品」を拝読した。主張には賛同できるが、エコロジーの定義について、誤解を招きかねない箇所があったので、捕捉したい。


エコロジーとは何か? 

気になった箇所というのは

エコロジストを自称する人々は、有機農業や無農薬栽培で「自然のまま」に栽培することが善だと信じているのかもしれないが、本当に無農薬にしたら農作物は壊滅して生活は成り立たない。よくも悪くも、もう日本には「ありのままの自然」なんてないのだ。それでも人々は自然を求め、「安心」な農産物にはプレミアムを払うから、和郷園では農薬を減らし、手間をかけて品質管理する。つまり自然とはありのままの状態に戻ることではなく、普通の農業より高コストの贅沢品なのだ。

という部分で、エコロジー(あるいはエコ)について、「ありのままの自然を良しとする」と取られかねない。

エコロジーとは、狭義には生態学のことだが、今では広く、「生態学的観点から、自然との調和を図る思想」と言えるだろう。 

もう少し正確に定義しようとすれば、エコロジーとは環境負荷:エコロジカルフットプリント(ecological footprint: EF)を小さくする思想と定義すれば、曖昧さがなくなる。ここで、エコロジカルフットプリントは環境負荷の単位として広く使われる指標である。

噛み砕いていえば、生態系に大きな影響の出ないような、生活の仕方を考えるのが、エコロジーであるといってもよい。 

「自然のままがよい」というのはエコロジーとは違う。 そもそも農業自体が、環境破壊であり、生態系の攪乱要因であるから、生態系のリアクションとして害虫が発生するのは自然の摂理なのだ。 「自然のままが良い」がエコロジーの定義なら、エコロジストは、採集生活をするしかない。

同じ文脈で、

梅原氏の語るようなロマン主義は、世界の自然を大規模に破壊した西洋人が、その罪を糊塗するために語る裏返しの自民族中心主義である。彼らは文明の中に住みながら、自分と無関係な自然だけは保存せよという。彼らは原子力が「自然エネルギー」ではないというが、太陽光発電こそもっとも人工的で高価なエネルギーだ。

という部分についても、梅原氏はエコロジストではなく、ロマン主義者だと受け取って欲しい。

自然の前に人間は無力

池田先生の言われるように、「自然をコントロールする」ことは人間の生存にとって必要なことだ。たとえば、公衆衛生がなければ、これほど過密に住んでいる人間の間で、瞬く間に感染症が広がって、人口は大幅に減るだろう。 

しかし、自然をコントロールすることには限界があることを忘れてはいけない。 人間の力はたかが知れている。

たとえば、首都圏の渇水の影響だけみても

群馬県内の白菜の種まきは、例年9月下旬ごろまでをメドに行われるという。しかし、「これだけ土壌がカラカラだと植えてもすぐに枯れてしまう」(群馬県館林地区農業指導センター)。現在は、多くの農家で種まきを見送っている状態だ。渇水の影響は各地に及びつつある。

「首都圏の渇水深刻化」

と報じられているように、水資源や資源の枯渇(石油、リンなど)の問題は、そう簡単に解決するものではないだろう。 私には、CO2排出を抑制することなく、気候変動をありのままの自然として受け入れる勇気はない。

今年のアメリカの大干ばつを見ても、人間は自然の前に無力であることは明らかだ。 

人間の限界を知ること、それが、エコロジーの基本思想だと、私は思う。 

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