日本と世界の歴史に学ぶ「法の支配」

矢澤 豊

昔、歴史は文学であった。そして、あらゆる学問の母であった。経済学も、社会学も、政治学も、倫理学も、 — 哲学すら、歴史の中にあった。
(海音寺潮五郎「武将列伝」あとがき)

すでにとりあげたテーマなので、再訪するのにいささか気が引けたのだが、ここ数週間、「法の支配」などという通常はマイナーなトピックにスポットライトがあたることが続いたので、この機にあらたためておさらいしておきたい。


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以前のエントリー(「道理:日本人の法律観と経典主義という癌」)で、鎌倉時代初期に御成敗式目を制定した北条泰時の書簡を紹介した。

「さてこの御成敗式目を作られたことは、何をよりどころにして書いたのかと、きっとそしり非難する人もあろうかと思う。たしかにこれというベきほどの典拠によったことはないが、ただ道理(武士社会での慣習・道徳)のさし示すことをしるしたのである。...」

ここに我々は、日本史上初の「法の支配」の完成をみることができる。

北条泰時は、承久の乱(1221年)の際、鎌倉方の総大将として後鳥羽上皇についた朝廷勢力を完膚なきまでに叩きのめした。その後、父、北条義時の跡を継いで幕府執権の座に就いた(1224年)。執権職にあった泰時が定めたのが御成敗式目である。(1232年、貞永元年に制定されたので、「貞永式目」ともいう。)

当時の日本においては奈良・王朝時代からの律令制度が、建前上は公式の法制度として存在した。しかしその実際は有名無実であった。新たに武家による法律を制定するにあたり、泰時は京都の六波羅探題として対朝廷交渉の最前線に赴く実弟、重時にその新法制度樹立の意図をあきらかにしてみせたのである。

「このようにあらかじめ定めておかないと、あるいはことの正しいか誤っているかを次にして、その人の強いか弱いかによって判決を下したり、あるいは前に裁決したことを忘れて改めて問題にしたりすることがおこったりしよう。こんなわけだから、あらかじめ訴訟の裁決のあり方を定めて、人の身分の高い低いを問題にすることなく、公平に裁判することのできるように、こまかいことを記録しておくのである。この式目は、律令の説くところと違っている点が少しあるが、例えば、律令格式は、漢字を知っている者のために書かれているので、ほかならぬ漢字を見ているようなものである。かなばかりを知っている者の為には、漢字に向った時は、目が見えなくなったようになるので、この式目は、ただかなを知っている者が世の中に多いこともあって、ひろく人の納得しやすいように定めたもので、武家の人々の便宜になるように定めただけのことである。」

つまり一般人が理解できる法律を定め、法の下の平等を担保すると共に、従来の朝廷の「ご都合主義」で恣意的な適用をされていた律令制度にとって代わる法制度を定めたのだ。(政治上、朝廷側への気遣いで、あくまで正面衝突は避ける書き方はしてあるが。)

泰時のこの「新制度発足」宣言にいたるまで、鎌倉幕府はこうした新制度が実際に効力を発揮することができるよう、長い時間をかけ、根気づよくその土台作りに専念してきた。

泰時の祖父にあたる北条時政は、源頼朝の名代として朝廷側と交渉し、名目上は幕府の反逆者となった源義経を追捕する目的で、全国に惣追捕使(そうついぶし)・国地頭(くにじとう)を置くことへの許可を得て、守護・地頭による幕府の警察権と徴税権を確立した(1185年)。幕府はまた鎌倉においては問注所を設け(1184年)、司法権を行使する機関の充実を図った。

御成敗式目の内容をみてまず抱く印象は、土地の帰属、またその相続に関する記述が多いことだ。鎌倉武士、いわゆる御家人たちは、官僚化した江戸時代の武士と違い、原則として在地開拓民である。「一所懸命」の言葉に代表されるように、それぞれの所領における農産業をその経済基盤とした彼らにとって、所領に関する訴訟を効率よく、かつ公正に処理することが、彼らが幕府に望んだことであり、幕府はこれに応えたのだ。

こうした政治上の存在意義が、幕府の存在を正当化した。だからこそ頼朝、頼家、実朝と三代で滅んだ源家将軍がついえた後も、御家人たちは幕府を支持し、朝廷側の「アンシャン・レジーム」に対して断固と抗戦したのだ。

頼朝未亡人の北条政子が、承久の乱のおり、上皇挙兵の報に動揺した御家人たちに向かい、

「皆心を一にして奉るべし。これ最期の詞なり。故右大将軍(頼朝)朝敵を征罰し、関東を草創してより以降、官位と云ひ俸禄と云ひ、其の恩既に山岳よりも高く、溟渤よりも深し。報謝の志これ浅からんや。」

と、大演説をぶったとき、御家人たちは当時65歳のばあさんの熱弁に感動しただけではない。武士たちは自分たちの利益を保護するのは幕府の存在であることをあらためて思い出し、怒濤のごとく京に駆け上ったのである。

いささか話が「法の支配」からずれた。

視線をヨーロッパにうつすと、いわゆる「マグナ・カルタ」(大憲章)というものがある。これは対フランス戦などで好き勝手をやったイングランド王、ジョンに対し、イングランドの主に貴族たちが集まり、王の権限を制限しようとして成立させた(1215年)。これにより、イングランドにおいては国王といえども、法に従うという原則が確立され、これが英米法における「法の支配」の原点となった。

しかし「マグナ・カルタ」の精神による「法の支配」が完成するには、大陸ヨーロッパの王権神授説に影響され、専制君主の傾向が強かったスチュアート朝のジェームズ2世を追い出して、オランダのオレンジ公ウィリアムを国王として迎える「名誉革命」(1688年)と、その結果としての権利章典(Bill of Rights)の採択(1689年)を待たなければならなかった。

こう世界史を俯瞰してみると、北条泰時と、彼に代表された当時の東国武士団の政治的意識の高さにあらためて驚かされる。

鎌倉幕府の滅亡は、その統治機構が当時の日本の経済発展についていけなくなたことから引き起こされた(以前のエントリー、「日本は「太平記」の時代へ」を参照されたし)。その後、南北朝の対立を経たあと、戦国時代の混乱期において、戦国大名としての自覚と志を高くもった武将たちは「御成敗式目」の原点に立ち返り、いわゆる「分国法」といわれるそれぞれの領国における法を定め、「法の支配」の下に領国経営の充実を図った。

皮肉なことに実際に他に先駆けて「天下布武」に邁進した織田信長は、いわゆる「楽市楽座」に代表される経済発展政策を優先させ、行政・統治機構の充実を怠ったことから、側近の裏切りによってたか転びに転げおちた。彼にとって代わった豊臣秀吉は圧倒的な経済力と軍事力を背景に全国統一を果たしたが、政治的には絶対専制君主制のそれを越えることがなく、「なにわの夢」は彼一代の人生と共に「つゆと落ち、つゆと消え」さった。結果として江戸幕府265年の泰平の世を拓いた徳川家康が、鎌倉時代の第一級史料である「吾妻鏡」を座右の書として愛読していたことは偶然ではないのだ。

あまり歴史の話ばかりに耽溺しても、読者にあきられてしまうので、ここらへんでヤメておく。しかし最後に一言。日本の法曹教育は、六法全書といういわば「トリセツ」の暗記に終始し、法律教育が「教養」に結びついていない。職業訓練ということであれば、それもそれでもいいのだろうが、学部生のころから「司法試験合格」という目的に隷従させられていては、「教育」という本来の眼目に立ち返った時、偏重のそしりを免れない。「法の支配」を語るにあたって、空虚な言葉を弄することに終始することのないよう、たまには自らの国の歴史と諸外国のそれをひもとき、法学の観点からこれを再考することも徒労にあらざりしか...ということで一筆啓上した次第である。