東大が何も決められないワケ

田村 耕太郎

昨日は世界の大学の命運について書かせてもらったが、今日はわれらが日本代表、東京大学について書かせていただく。グローバル化を進めると主張する東大だが、その実、9月入学さえ現総長の濱田純一氏の任期中には決められない。昨年9月入学をぶち上げた時、その一方で今の総長には決めさせないと「5年以内を目途に」と一文加えさせた。さすが霞が関文学の生みの親であるとうならされた。このように、東大の運営の難しさがよく言われ、その背景として、学部の自治が非常に強く、一体感を持ちにくいとの見方がよく喧伝される。調べてみると、その理由がよくわかる。結論から言うと、日本最古の大学であり、日本最高教育・研究機関である東大の生成過程はまさに「ごった煮」だったのである。

 


東大の設立は明治10年と言われるが、それも正確には怪しい。

 起源が一番古いのが文学部と理学部。それは1684年に設立された幕府天文方。次が医学部。その起源は1858年に作られた幕府種痘所である。続いて、1871年にできた司法省明法寮を起源とする法学部と経済学部。同じく1871年設立の工部省工学寮を起源とする工学部。農学部は1874年に作られた内務省農事修学場が起源。教養学部に至っては1894年にできた旧制一高、いわゆる高校が母体だ。
 

このように江戸幕府の施設の一部から始まったものもあれば、司法省や工部省、内務省のような役所の一部を起源とするものある。その一方で高校が母体だったものもあるのだ。

 しかもモデルもバラバラ。文学部と理学は各々ドイツとイギリスをモデルと
され、医学部はドイツ、法学部・経済学部はフランス、工学部はスコットラン
ド、農学部はアメリカ、教養学部はドイツとアメリカのハイブリッドを各々モ
デルとする。まあ、いうまでもなく日本の法律や統治機構も模倣先はバラバラだが。欧米の制度
を急いで導入しようとした明治の先人たちの熱意は伝わるが、整合性がよくな
いのは事実だろう。

 このバラバラさに横串を通そうとしたのが戦後の初代総長、南原繁氏。戦後、旧制一高を東大に取り込んで教養学部としたのだ。その政治力と先見性は高く評価すべきだ。しかし残念ながら、いまだに学部の自治が大学全体の運営より大事というカルチャーは変わっていないようだ。

いまだに文系と理科系の交流は細く、東大教授同士で名刺交換している姿もよくみられる。まあ教員だけで4000名近くいる巨大大学から仕方ないが。東大をひととくりで問題視する前にその背景に歴史ありを知るべきだと調べて思った。ただ、その東大も問題を放置しているわけでない。東大は、その東大の文理総力を結集すべく、小宮山前総長総長直属で生まれたEMPを触媒に東大の一体感を生み出しつつある。色々課題はあるが最大の国費が投入され、我が国最高の頭脳が結集している場である。それを活かさない手はない。東大のさらなる奮起を期待するとともに厳しい提言も続けていきたい。