福袋と政治への無力感 --- 片桐 由喜

アゴラ

1月2日の初売りは我が国の商習慣であり、福袋は初売りの目玉商品である。正月のニュースでは福袋を求めて、早朝からデパート前に並ぶ客の姿が必ず映し出される。近年は中身のわかる福袋も売られているが、何が入っているかわからない、やはり驚きの喜びが福袋の醍醐味である。


中身がわからない、しかも、例えばデパートの売る福袋は決して安くないにもかかわらず、行列をしてまで買おうとするのはなぜか。それは、前記の通り、驚きを楽しみたいことに加えて、購入価格以上のお得感を味わいたいということなのであろう。そして、消費者はこの期待は裏切られないと信じていて、だからこそ買うのである。10,000円払って、中身が5,000円程度の品揃えであったり、流行遅れの売れ残り商品であれば、誰も買わない。そんな福袋を、このご時世に売ろうものなら、大変なことになる。「商売は信頼がすべて」を端的に表すのが福袋といえる。

福袋と同じく中身がよくわからない、より正確に言えば支払いの対価がよくわからないままに、私たちが日々、大枚をはたくものがある。税金と社会保険料である。納めた税金や社会保険料が、何にどれくらい、どのように使われたかについて、日本人の関心、すなわち、納税者意識は他国に比べて低いと言われ、とりわけ源泉徴収の仕組みがこれを助長していると指摘されている。

この関心の低さは、納めた税金などを徴収権者である政府や地方自治体が間違いなく適正に使うはずであるという、彼らに対する絶大な信頼感に由来するのだろうか。老舗デパートの売る福袋には裏切られないと信じるのと同じように、彼らを信じているのだろうか。

少なからず信じているとは、いえる。しかし、民主党政権時代には税金の無駄遣いとして「事業仕分け」が断行された。また、マスコミは生活保護の不正受給や、診療報酬、介護報酬の不正請求などが発覚すると大々的に報道する。そして、これらの仕分け作業や報道により指摘された税金等の無駄遣いに対する怒りは、関係当事者に対するバッシングとなって表される。この種のバッシングから、税金等の使途について私たちの心の中に潜在的な不信、不満がくすぶっている事が読み取れる。

福袋は買う店を選ぶことができる。袋を開けてみて、値段にあまりにも見合わない粗悪品が入っていたならば、店にクレームをつけるだろうし、そこまでひどくないにしても、期待はずれの中身であれば、翌年からはその店では買わないはずである。しかし、税金や社会保険料は払わない選択肢はないし、納め先を自由に選ぶこともできない。さらに、不平不満があったとしても、国家や地方自治体の財政規模のあまりの大きさと、何を言ってもどうしようもないという諦めや無力感が先に立つ。

少子高齢社会の現在、そして、未来、税金等の負担が減ることはない。そんな社会を進んで作ってきた私たちの多くは応分の負担を覚悟しているし、納得している。その負担によって作られる社会の仕組みが、私たちの期待を裏切らない、信頼に値するものであることを2013年に期待したい。

片桐 由喜
小樽商科大学商学部 教授


編集部より:この記事は「先見創意の会」2012年1月8日のブログより転載させていただきました。快く転載を許可してくださった先見創意の会様に感謝いたします。
オリジナル原稿を読みたい方は先見創意の会コラムをご覧ください。