アベノミクスを産業界は歓迎するのか?

松本 徹三

最初に誤解のないように言っておくが、私は取り敢えずの安倍政権の滑り出しには好感を持っている。とにかく「普通に政治」が回り始めていると感じられるようになった事は評価すべきだろうし、外交関係でもつとめて慎重な発言をしているようなので、取り敢えずは安心している。

しかし、経済政策については、当然の事ながら疑問だらけだ。グーグルマンがアベノミクスを評して「普通に経済が分かっている人達では、怖くてとても出来ないような『壮大な実験』だ。意外にうまく行くかもしれないし、こういう実験を誰かがやってくれるのは、世界の為にも良い事だ」という趣旨の事を言っているらしいが、これを聞いて安心する人もいるようだから、世の中は様々だ。実験台にされるのは、我々、というよりも我々の子供達や孫達だから、私等はとても安心していられるわけがない。


安倍政権になってから、あれよあれよという間に円が90円台近くまで下がり、日経平均は1年11ヶ月ぶりの高値をつけたのだから、これまで口を開けば「円高」を憂い、「デフレ脱却」を呪文のように唱えてきた人たちからみれば、「ほら、やれば出来るんだ」と意気軒昂かもしれない。しかし、言うまでもなく、これは全くのプレリュードでしかない。

アベノミクスとは、要するに「日銀に圧力をかけて金融を徹底的に緩和し、財政出動を大胆にやれば、日本経済は成長軌道に乗り、GDPは2%上がり、雇用は60万人増える」という事なのだが、このうち確実に起こるのは「公共事業を中心に国費を10.3兆円投入する(その約半分は国債の増発でまかなう)」という事だけだ。

公共事業は、国が決めればいくらでも出来るし、それで仕事は確実に増える。GDPもその分だけは取り敢えず僅かながら増える。しかし、「既に金利が下限に張り付いている日本では、いくら大胆な金融緩和をしても実体経済には殆ど何の影響も与えないだろう」というのが多くの経済学者の共通の見解だから、あとの施策の効果はまだ全くの未知数だ。

しかし、新政権のトップがこのような政策を表明すれば、実体経済とは関係なく、もう一つ確実に起こる事がある。それは国際市場がその国の通貨を売る事だ。従って、現在の円安は当然の事だ。その一方で、「円が実勢以上に安くなった」とみられれば、日本株は買われるだろう。多くの人は「とにかく円高が修正されて株が買われる事は良い事だ」と受け取るだろうが、本当にそうかどうかはもう少し慎重に考えてみる必要がある。

特に「現在の円相場が本当に日本にとって望ましいものかどうか」は、よく考えてみなければならない。私自身、34年間勤めた商社では電子機器などの輸出の仕事が多かったので、「円高」で何度も辛酸をなめた。だから、これまでの「恒常的な円高」が「六重苦」の筆頭に掲げられているのも分からないではない。

しかし、日本全体でみると「輸出産業は今や産業全体の13%でしかなく、一方、食料や燃料の輸入の増大で、貿易収支は今や恒常的に赤字」なのだから、現在のような急激な「円安」は、当面の「国民の生活」の為にはむしろマイナスだろう。輸出が占める比重の大きい会社にしても、投機筋が入り込んで為替が乱高下するような状況になる事は回避したいだろう。

さて、本稿のテーマは、「産業界はアベノミクスを歓迎するか(歓迎すべきなのか)」という事なので、そろそろその事について語ろう。「六重苦」の筆頭である「円高」については既に語ったので、他の「五重苦」について考えてみよう。

先ず、「法人所得税」だが、当面あまりはかばかしい減税はないとしても、種々の優遇税制は期待出来ないではなく、「少なくとも民主党政権よりは良くなるだろう」とは思われている筈だ。

「派遣業法等に関連する労働流動性の保証」についても、当然民主党よりは企業寄りの政策が期待出来るだろう。「環境規制」の問題は大差ないと思うが、「少なくとも民主党時代よりやり難くなる事はないだろう」とは思われているだろう。

残る問題は「FTAやTPPへの参画の遅れ」に対する懸念と「電力不足」への対応(原発問題を含む「エネルギー問題」)だ。

先ず、FTAとTPPだが、これは自民党が持って生まれた「宿痾」に直接関係する問題だ。 

TPP反対派の議論を聞いていると、「そんな事をすると日本の農業は壊滅する」とか、「医療や保険の分野でも、日本の『良い制度』が根こそぎ潰されてしまう」とかいった議論が殆どだ。詳細についてはここでは触れないが、要するに「既得権を侵されるのを心配する人達」を代弁する勢力が、自民党の中で引き続き大きいという事だ。従って、自民党がこの「宿痾」を断ち切らない限りは、産業界から真のサポートを受ける事は難しいだろう。

次に「エネルギー政策」だが、これは自民党、民主党の差なく、誰が取り組んでも難しい問題だ。自民党政権も原発問題については慎重に扱うだろうが、少なくとも「経済論議無視で『原発ゼロ』を声高に叫ぶような人達」とは一線を画すだろうから、その分だけ産業界は安心出来るだろう。

産業界の「安価な電力の安定供給」に対する渇望は相当大きいものだが、これを実現する具体策については、守旧派と改革派の間に意見の相違が生まれるだろう。自民党の主流派は、東電等とは長年にわたる蜜月があったわけだから、守旧派がやや有利になる事は否めない気がするが、それでは「諸外国に比べ電力が割高である」という状況は、いつまでたっても解消出来ないだろう。

このように、「六重苦」対策については、TPP問題を除けば、産業界は概ね安倍政権に「懸念」よりは「期待」を持つ事の方が多いだろうが、それでは、「財政出動」と「金融政策」についてはどうかと言えば、私は「期待」より「懸念」の方が多いのではないかと思えてならない。産業界のリーダー達は、当然の事ながら、一般国民よりは経済の事は良く分かっている筈だから、「目先の景気浮揚」の為に「将来の財政破綻のリスク」が増すような「実験的な政策」には、心の中では賛同はしないだろう。

また、産業界は、「甘い施策は、後々に死ぬ程の苦しみをもたらせかねない」事も最近学んだ。電機業界はデジタルTVへの買い替えに際しての手厚い補助金で大きく潤ったが、これに対応する為に拡大した生産体制はすぐには縮小できず、補助金の期限が切れて全く商品が売れなくなると、膨大な不稼働損失を被る事になった。「もうあのような苦しみは二度と繰り返したくない」と、誰もが肝に銘じた筈だ。「市場」は、政治家に作ってもらうものではなく、経済原則に基づいて拡大するのが一番なのだ。

しかし、企業経営者は、余程の事がない限り、政治家や官僚を前にして、面と向かって批判するような事はしない。面と向かいあう機会があれば、彼等は、取り敢えずは差し障りのないお世辞を言い、とにかく自社に都合の良い事がやって貰えるように揉み手をするだろう。だから、政治家は、多くの場合「自分達の考えが強く支持されている」と勘違いして、自信を持って誤った政策を遂行してしまうのだ。

今回は産業界の問題について語ったが、これは政治家にかかわり合う我々有権者の全てについて言える事だ。政治家と異なり、我々有権者は「票を得る為に甘い事を言う」必要は全くない。一方、我々現在の有権者は、何も言う事が出来ない子供達や孫達に対して責任を持っている。だから我々は、どんな時にも、この責任を果たす為に将来の事を深く考え、大いに発言しなければならない。