大学教育に対する最近の社会的要請について

2013年01月13日 10:28

近年、大学教育に対する実業界からの風当たりが強い。

最近、ファーストリテイリングの柳井正氏が、日本経済新聞の卒言直言で、「1年生に内々定、その意味は 大学変えねば日本は沈む 」という記事を書かれている。 

柳井氏の主張は、大学は社会の要請に応えていない。もっと社会の役に立つ人材を輩出せよ、そのために教育力を磨け、ということである。 ここでは、この記事を元に社会に対して大学は教育面で、どう貢献できるのかを、大学で数学を教える自分の立場から考えてみたい。


大学にどんなことを教えてもらいたいのか 

まず現状の大学教育について、柳井氏は

「世の中で生きていくのに必要な基礎的な教養や知っておくべきことを知っていないし、知識の絶対量も少ない。そのために適切な判断ができない。もっと知識を詰め込まないと、自分が進んでいる道が世の中の方向性に合っているのか分からない。自分の判断が正しいかどうかを常に意識して行動することを習慣付けるべきだ。実業界は自分で考えて、自分で結論を出して実行できる人材を求めている」

と述べているので、もっと基礎的な教養や知識を詰め込んでもらいたいと思っていることが分かる。 そして具体的に何を教えるのかについては、

「社会に望まれるビジネスはどのようなものなのか、社会により貢献できる経営のあり方、人間のあり方を教えてもらいたい。会社員製造機関ではだめで、起業家の育成が大切だ。大学や大学院でそうした講座も出てきたが、小手先だ。経営マインドを持つ人材が大学から輩出されないから、そのための機関も自前で作った。世の中を変えるような仕事ができる人材を育てたい」

と述べているから、社会のニーズを意識し、自らのビジネス像を持った人材を育成して欲しいということのようだ。

柳井氏に限らず、実業界が大学教育に求めるものは、生徒に、もっと役立つことを、沢山詰め込んで欲しいということだろう。

大学教育の現状

ところが、これから述べるように、現在の大学教育では、(直接的には)全く役に立たないことを、ほんの少ししか教えていない。 

私は大学で数学を教えているが、 私が、大学で教えている内容自体、基礎科目である微分積分、線形代数、フーリエ解析、複素関数論といったもの以外は、恐らく、大部分の生徒にとって、一生使うことがないものである。

例えば、標準的な数学の専門科目(集合と位相、ホモロジー代数、位相幾何学、群論、環論、代数的整数論、微分幾何学、代数幾何学、測度論、関数解析学など)は、全て実社会では全く役に立たない。

いや、大部分の生徒にとって、微積分や線形代数のようなものまで、卒業後、全く使わない人はかなり存在するだろう。 

そもそも大学の授業、1コマ90分、半期15回の授業で伝達できる知識など高が知れている。 例えば、私の授業1科目半期分の講義ノートはA4版40枚ほどしかないし、公開もしている。 知識だけ詰め込むのなら授業に出なくてもよいはずである。 パワーポイントで知識だけ伝授するだけなら90分授業2回で十分な量だ。 

しかし、余程の力量のある学生でなければ、実際には自習できない。これは楽譜を渡しただけで、学生が楽器を演奏できるようにはならないのと全く同じことである。

大学の先生がやるべきことは、生徒の目の前で実演をしてみせることで、これは、デパートなどでやっている実演販売と同じようなものとも言えるし、テニスのコーチがレシーブやサーブのやり方を教えるのと同じようなものである。 物理や化学の実験も同じようなものである。教えるにはとても手間が掛かる。

だから、必然的に授業で教えられる知識など高が知れているのである。実際、自分の学生時代を振り返っても、先生の講義や演習から得た知識は、自習して得た知識に比べ圧倒的に少ない。

大学教育の本当の意味

以上のように、大学では役に立たないことについて、ほんの少しばかり教えているだけである。 柳井氏のような実業界の方々からお叱りを受けるのも当然のようにも思える。

もっと世の中に直接役立つことを、パワーポイントなどの最新のプレゼンテーションを使って、数十倍の速さで教えたら、どんなに素晴らしい教育効果が得られるだろうか、と思う人も多いだろう。

しかし、これは実際には、ほとんど機能しないだろう。 それは何故かというと、東大などトップレベルの大学の学生でも、ほんの一握りの学生しか、自分でどんどん学習してゆく能力がないからである。

それは何故かというと、自発的に学習する学生であっても、自分がきちんと理解しているのか、それとも理解が不十分であるのか、ということすら分かっていないことが非常に多いからである。  

自分で分かっているつもりでも、全然分かっていないことが非常に多いのだ。

実際、学生に「それは何故ですか?」と訊くとほとんど答えられないことが多い。「そう習いました」、「それは公式です」、「そう教科書のここに書いてあります」といった答しか学生が持っていないことが多い。 物事を自分で考え、自分なりの分析を加える思考力が欠如しているのである。

私の行っている教育活動のエッセンスは、「それは何故ですか?」と訊くことである(私の研究活動も「それは何故か?」と自問することである)。つまり、学生に自分の理解の浅さを自覚してもらうことが、大事で、教えている内容はそれほど重要ではない。 

教えている内容は、新しい概念や定理であればよく、学生にとって未知の概念、未知の定理を提示することで、理解するのに苦労してもらえば、教育の目的は大部分達成されるといってよい。そして題材は、抽象的で、生徒が理解するのに長時間の集中が必要なものほど(勿論程度問題ではあるが)望ましいのである。

私は、物事を整理し、論理的に分析することが、数学である、と考え、数学の考え方を伝えてゆくのが、私の使命であると思っている。 数学を学ぶのは、専門知識を得るためではなく、物事を如何に整理し、論理的に分析するのか、その方法を体得するためなのである。 それを訓練することで、あらゆる分野で役立つ、普遍的な学習能力を身に付けることができるのである。

私の目指す大学教育とは、生徒に自立して考える力を身に付けてもらうことであり、そのために、「それは何故ですか?」という質問を繰り返しているのである。 

従って、私が柳井氏の問いかけに、答えるとしたら、「急がば回れ」と答えるしかない。なぜなら、こうした迂遠にも見える方法が、柳井氏の求める「自分で考えて、自分で結論を出して実行できる人材」を生み出す一番よい方法だと考えるからである。 仕事ができる有能な人材とは、学習能力の高い人材、ということではないだろうか。

補足 この論説に反論のある方も多いと思いますが、極論すれば、数学を日常生活で使うことはないし、計算も電卓で出来るのだから、中学生以降では数学の授業をなくしてはどうでしょう? 本当に直接役に立つことだけ、学習させることが、どのような結果を招くのか、やってみる価値はあるかと思います。 本当に何が役に立ち、何が無駄なのか、知ることは難しいことだと思います。 また、この論説は自分の専門、数学からの視点で書いたものです。

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