文化の固定化を目指す愚かさ(その1) --- 竹内 玄信

2013年01月19日 11:00

ある文化の存続が脅かされた時、必ずと言って良いほどに「保護せよ」という意見が出る。「保護」という思考に陥った時、文化の「過去からの可能性」と「未来への可能性」の両方を見失うかもしれない(誤解を防ぐ為に明記しておくが、私は「文化は重要」という立場にいる)。

この問題を考える為に、まずは「文化の保護」というものが何を意味するかを考えてみる。(注1)


工芸でも地域文化でも民族文化でも何で考えても良いのだが、マイノリティとされる文化があったとしよう。こうした文化が「危機」に陥る時、一般的に「マジョリティ文化の侵食」や「後継者問題」、「金銭上の問題」などが原因とされる事が多い。この時、大抵は「文化を守れ」という意見と「努力せよ」という意見が交錯する。

「努力せよ」という意見には幾つかのパターンがあるが、多くは「市場の中で受け入れられるように努力せよ」若しくは「社会に支持されるように努力せよ」という意味を暗に含む。「市場の中で受け入れられるような努力」の中には、「時代に合わせて文化を変化させる」が含意する。それに対する「文化保護論者」からの再反論としては、「文化とお金は切り離して考えるべき(注2)で、市場を意識すれば芸術性や独自性が損なわれる」といった意見が多かろう。

確かに(もし)ある文化が外界から影響を免れる事が出来れば、その限りにおいて持続が可能である。社会の支持は無いが、それでも当該文化が「多様性」や「文化アイデンティティの保持」といった理由から保護の対象になる。この状況の実現可能性はさて置き、その文化の継承は可能である。但し、文化を「固定化」した上での継承だ。

コーエン(Cowen, 2002)の議論を援用せずとも、「文化は変化するもの」である事は明白だ。しかし、文化の長期的な変化のスパンに対して、人の人生は短い。長期的には変化する事が分かっていても、なかなか自分の視点を超越した時間把握によって物事を見るのは難しい。だから、「短期的な変化」に敏感になりがちである。(注3)

文化の変化を許容せず、固定化しようとするのは本当に正しいのだろうか。それを検討する為に、「大阪文化を完全に記述する方法」(注4)が存在するかを考えてほしい。「たこ焼き」とか「大阪城」など、大阪の特徴として記述出来そうな要素をどんどんと列挙するだけで良い。もし、あます所なく全て列挙する事が出来る方は是非とも名乗り出ていただきたいが、恐らく無理だろう。

もし、それでも「固定化された◯◯文化」が存在するという実在論的な立場を取るなら、冒頭のように「過去からの可能性」と「未来への可能性」を失いかねない。現代では忘れられていたが、嘗て存在した要素を蘇らせて「まちおこしの材料」とするといった考えは生じ得ないし、将来生まれるかもしれない新しい「何か」が要素として付与される可能性も損なってしまう(もし「過去や将来の可能性を含めて全ての要素」と考えるならば、それはもはや実在論的な立場ではない)。

次回は、このような実在論的な立場と、それに反対する立場を理論的に整理する事で、どのような文化の捉え方が望ましいかを検討しよう。

注1:さしあたって、文化の定義として頻繁に引用されるタイラー(Tylor, 1871[1973])の「知識、信仰、芸術、道徳、法律、習慣、その他、人間が社会の成員として獲得した、あらゆる能力や習性を含む複合の全体」という定義を用い、自然や芸術、社会制度などを含む広い意味で文化を捉えよう。

注2:補助金などで文化を保護するのを止めろという意見を指すのではなく、「社会情勢によって保護の程度(補助金額など)を変化させるのを止めろ」という意見を指す。

注3:例えば、私の研究対象である「クラシック音楽」を取り上げた場合でも、長いスパンで見れば、その様式は様々な点で大きく変わっている。クラシック音楽にまつわる様々な慣習の変化については、スモール(Small, 2011)が詳しい。

注4:東京文化でもアイヌ文化でも、各人がイメージしやすいもので良い。

竹内 玄信
大阪市立大学・院生

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