大学が有能な人材を輩出するには

2013年02月16日 10:45

最近、大学はもっと実践的な教育をせよ、という声が実業界から上がり、中には、大学は職業訓練をせよという声もあるようです。 この原因は、大学が実業界の求めるような人材を輩出していない、ということでしょう。 

ここでは、大学教員としての立場で、この問題を考えてみたいと思います。


どのような能力が求められているか

まず、どんな能力を身に付けた人材が、今求められているのでしょうか。

現在の多くの知識は、インターネットの普及により、簡単に手に入るようになっています。また、現在、有用な知識でも、変化の速い現在、すぐに陳腐化することは避けられません。 たとえばプログラミング言語一つをとっても、短い間にどんどん変遷しています。

従って、現在では、知識そのものの価値は、あまり高くないでしょう。 

それでは、どのような、能力が重視されるかというと、問題を発見したり、事象を分析したり、問題の解決方法を提案する能力といった、主体的に考える能力や、必要に応じて技術や知識を短時間で身に付ける学習能力が重要なように思われます。

こういった、主体的思考力、学習能力が身についていれば、現在のように変化の激しい世の中でも、臨機応変に対応してゆけるでしょう。 

これは、ファーストリテイリングの柳井正氏が、日本経済新聞の卒言直言で、「1年生に内々定、その意味は 大学変えねば日本は沈む 」の中で

自分の判断が正しいかどうかを常に意識して行動することを習慣付けるべきだ。実業界は自分で考えて、自分で結論を出して実行できる人材を求めている。

と述べていることでも裏付けらます。 

自分で考えられない

ところが、現実の大学生は、どうでしょうか。

私が今の学生に足りないのは、主体的に考える能力だと日々感じています。実際、ゼミで教科書を読んで、当番の学生に1回に数ページを解説してもらうのですが、これが、きちんと出来る学生は、残念ながらほとんどいません。  

一言で言えば、理解があやふやなのですが、なぜ、理解があやふやなのか、というと、自分の頭で考えていないからです。 

たとえば、ベクトル空間という概念を定義したとき、どういうものがベクトル空間になるのか、自分で例を考えて、それが本当にベクトル空間になっているのか? ということを検証する作業ができないのです。  

それではと、こちらが、ベクトル空間の例を学生に提示し、詳しく解説すると、その例については、学生は納得します。 ところが、その例を取っ掛かりにして、別の例を考えようと提案しても、何も思い浮かばない。 そこで、また、別の例を提示すると、また、その例については、学生は納得するのですが、「それでは別の例は?」 と質問すると、また答えられない、といった具合です。 賽の河原の石積みのようなものです。  

こういった状況では、こちらが余程、学生に働き掛けない限り、学生が知識を学んでも、それを起点にイマジネーションが拡がらず、生きた知識にはならないままに放置され、やがて忘れ去られてしまいます。 こちらが、限られた時間でインプットした知識だけが、学生の頭に残り、それを元にして、理解が深まったり、発展したりすることがないために、教育は極めて非生産的になってしまうのです。

また、多くの学生は、数学の内容は理解せず、計算技法のみ身に付けており、概念の意味や意義について、無頓着です。 その結果、行列式を計算することは出来ても、行列式の定義や意味が言えない、 行列の階数を求められても、それが何を意味するのかが分からない、留数計算は出来ても、複素積分の定義が分からない、といった、不思議なことが起きるのです。 

例えば、大学生協には東大、京大といった一流大学でも、線形代数の試験対策用に、行列の階数の計算などが、カラーの図解入りで、フローチャートにして解説された本がうず高く積まれています。 このような現象が端的に示しているように、学生の立場としては、主体的に考えるよりは、どうやって問題を解くのか、そのノウハウを暗記する方が手っ取り早く、テストで良い点を取るには、効率的だというわけです。

このように、現在、多くの大学生は、お膳立てされたことを、そのまま吸収するだけで、自ら主体的に考えることは非常に苦手です。 しかも、これは一流大学でも、稀なことではありません。 学生は、マニュアルどおりに計算を進めるだけであり、マニュアルのないことは、非常に苦手なのです。

大学生の学力は確かに二極化しており、主体的に考える能力があるごく一部の学生と、それ以外の大多数の学生というように明確に分かれています。 

原因は何か?

このような、主体的思考力、学習能力の欠如した学生が増加しているのには、いろいろな原因があると思いますが、一番大きな要因は、主体的に考えるのは面倒であり、回り道と考える学生が多い、ということではないかと思います。 

今のように閉塞した状況にある世の中では、どうしても、哲学を勉強したり、人生について深く考えたり、といったことよりも、もっと直接役に立ちそうなこと、たとえば資格を取得したり、英会話を習ったりといったことに目が行き勝ちです。  

高校教育も、目に見える、大学進学実績を上げるようにするのが、少子化の中で、高校が生き残るための最も合理的な選択でしょう。そのためには、概念的なことを教えるよりは、問題の解法のノウハウを教える方が合理的、となるわけです(実際、大学生に三角関数の加法公式を証明させてみると、出来ない学生が大半です)。

このように、結果を求める、という観点から考えれば、自分で試行錯誤するのではなく、出来合いのレシピに沿った訓練をした方が効率的だ、となってしまい、どうしても、ノウハウを詰め込むといったことになってしまうのでしょう。 

こうして、ノウハウの暗記に明け暮れて高校生活を送ってきた大学生に対して、急に、主体的に考えよ、といっても中々難しい、というのが現状なのではないかと思います。

そして、今、実業界から、声が上がっているのは、「大学は、もっと実践的な教育をせよ」という声です。 これは、私には、益々、創造性のない人間を輩出することになるように思えてなりません。

大学教育の役割

私は、現在の状況下では、大学教育の役割は、主にゼミのような少人数教育を通して、学生に理解が行き届いていないことを気付かせ、学生に主体的に考えるように促すことだと考えています。 

これは、言うのは簡単ですが、極めて大変な作業です。 正直なところ、私のゼミの学生の場合でも、教育は思うようにはいかないのが現状です。 たとえば、ゼミで私が、「それはなぜですか?」というような質問をして、答えられないことが続いた後、ゼミに来なくなってしまったり、逆に、懇切丁寧に教えると、そのことしか学生の頭に入っていないことを発見したり、本当に学生は千差万別で難しいです。 

研究者養成はもっと困難で、放っておくと、研究が進まないので、こちらがアドバイスを繰り返すと、今度は自尊心を傷つけてしまったりします。

私が大学教員として、感じることは、人間は非常に多様で、その生来の能力にも非常に大きな差があり、教育には、大きな限界があるということです。 こんなことを言うと、身も蓋もない話のようですが、そうではなく、柿の木は栗には出来ない、柿として立派な木に育てればよい、という意味です。 

私は有能な教育者ではないのかも知れませんが、微力ながら大学教育に尽力したいと考えています。

まとめ 

閉塞感のある社会の中で、直接的な結果を求めるあまり、主体的に考える学生が減少しており、大学は、そういった学生に、主体的に考えることを学ぶ場として機能すべきだと思います。 そうすることが、実業界の要請にも応えることになるのではないでしょうか。 

参考文献 

[1] 「使えない人」、「使えなくなる人」、「使える人」

[2] 大学は主体的に学習する場

[3] 大学教育に対する最近の社会的要請について

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