日本の若者は南欧の若者の現状を見据えるべき

松本 徹三

就活での挫折、非正規雇用の悲哀、ブラック企業の跋扈、等々、日本の若者が直面する問題は多く、将来は不安定だ。しかし、このような日本の現状は、南欧の若者達が直面している現状に比べれば、何と言う事はないようにさえ見える。例えば、スペインでは失業率は55%に及び、しかもそのしわ寄せは、中高年層ではなく若者達を直撃している。


ドイツや北欧諸国に比して南欧諸国の経済力が弱いのは、勤勉さや規律性に欠ける国民性によるものと考えられる事が多く、それもある程度はその通りだとは思うが、国や企業の労働政策によるところが多いのも事実だ。イタリアやスペインには伝統的に強固な解雇規制があり、就業期間の長い中高年層はこれで守られているから、各企業は、勢い、この保護が至らない若年層をバッファーに使う。つまり、中高年層が安定収入を享受している一方で、若者達は極めて不安定な立場におかれているという事だ。

所謂「ブラック企業」の酷さも日本の比ではないように思える。アゴラでは、最近、ユニクロを「ブラック企業」並だとする議論を巡って、幾つかの応酬があったが、南欧などでの本物の「ブラック企業」は、文字通り「ヤミ雇用」であり、給与はお話しにならない程安い。のみならず、これらの企業は、始めから税金も社会保険料も払うつもりは全くないのだから、国の立場から見ても困った存在だ。それでも、明日の食事もままならない若者達が、次々にこのような企業の餌食になるので、摘発の暇もないという。

このような追いつめられた南欧諸国の若者達が、今一番関心を持っているのが何かと言えば、国外脱出だ。アラブの春のとばっちりで国内で職を失ったチュニジアの若者達が、職を見つける為に何とかして欧州に渡ろうとしたのとちょうど逆の現象が、南欧諸国では今起きようとしている。高等教育を受け、高いスキルセットを身につけたイタリアの若者達は、必死でドイツへの移住を模索し、スペインの若者達はメキシコなどの中南米諸国の求人情報をネットで血眼になって探していると言う。

それでは、翻って、同じような苦境に直面している(かのように見える)日本の若者達はどうだろうか? 就活がうまく行かなくて「鬱」状態になり、家に引きこもる人達も多いと聞くが、「日本で職がないなら、これから仕事が増えそうな東南アジアででも職を探そうか」等と考えている若者がいるとは寡聞にして聞かない。そもそも、「その為に必要なスキルセットが何なのか」という事を真剣に調べようとしている若者等は見た事もない。

こんな事を言うとまた噛み付かれそうだが、日本の若者達はまだそれ程までには追い詰められてはいないようだ。日本では、金銭的に余裕のある中高年の層が厚く、その子弟には「パラサイト」や「引きこもり」の選択肢が残されている。これは世界的には珍しいケースで、発展途上国や現在の南欧諸国のように経済の行き詰まった国では、そんな贅沢な選択肢を持つのはごく限られた一握りの金持ちだけだ。

誤解されるといけないので真っ先に言っておくが、私は「日本の若者達は世界の他の多くの国の若者達に比べればまだ恵まれている方なのだから、文句を言わずに我慢していろ」等と言うつもりは毛頭ない。むしろその逆で、放っておけば南欧の若者達のように追い詰められる事になりかねないから、国のレベルでも個人のレベルでも、そんな事にならないように、今から対策を考えて実行に移していくべきだという事を言いたい。

具体的にどういう事を考えるべきかは、大略以下の通りだ。

先ずは、老いも若きも、「国のレベルでも個人のレベルでも、経済力と、それを可能にする国際競争力が極めて重要である」という事について、もう一度再確認しておく必要がある。音楽家の坂本龍一さんが原発反対運動の中で言った「たかがカネの問題」という言葉には、私も引っかかるところが多かった。

敗戦で無一物になり、「何とかして生きていかなければ」「何とかしてもう少し豊かになりたい」と一途に考えていた数十年前の日本人とは異なり、生活水準が一定のレベルに達し、「Japan as No.1」とおだてられるようになってからの日本人は、最早この事をあまり真剣には考えていないように思える。

「この事」、つまり、「生きていく事」を可能にし、「豊かな生活」を生み出すのは、とどのつまりは「経済活動」であり、その媒介になるのはカネに他ならないのだから、「たかが芸術家」に「たかがカネ」などとは言ってほしくはない。カネの事をいつも一生懸命に考え、あらゆる不合理を取り除いて、カネが正しい形でまわって人々の毎日の生活を支えていくように考える事は、良い音楽を作る事に負けず劣らず大切な事だ。

日本人、特に日本の若者達が、今や「物質的な豊かさ」よりも「精神的な豊かさ」を求める様になっているという傾向は、勿論とても良い事だ(私自身にも元来そういう傾向があるので、その事の意味は良く理解出来る)。しかし、中国の古典に「恒産なくして恒心なし」という言葉があるように、「精神的な豊かさ」は、ある程度の生活水準が満たされないとなかなか感じられないのも事実だ。

それに、厄介な事に、多くの人間には、周りの人と自分を比較して、ついつい羨望や嫉妬を感じてしまうという性向がある。そして、これは集団意識にも当てはまる。経済的に成功した中国人や韓国人が肩で風を切って歩き、周りの外国人も何となく日本人を軽んじるようになっても、果たして我々は平静な心でいられるだろうか?

東南アジア諸国の人達からは、日本人はかなり尊敬されているように思えるが、それは主として日本の技術力と経済力故だ。私は、多くの日本の若者達にこの認識を共有してもらい、「高い技術力や経済力を維持する為には国や各個人は何をしなければならないか」を、是非とも一緒に考えてほしい。

次に、私が現代の日本の若者達に最も求めたいのは、「自分の人生は自分が決めるものであり、うまく行かなかった時に、それを他人や社会のせいにしてみても何もならない」事をしっかりと認識しておく事だ。「不平・不満」と「言い訳」に終始し、犬の遠吠えでしかない「見ず知らずの他人への攻撃」を僅かな気晴らしにしているかのような毎日は、外から見ていてもあまりにも惨めだ。

このように考えていれば、就活の季節を待たずしても、自分がどういうスキルセットを持っていなければならないかを常に意識し、その為の努力を怠らないようになるだろう(就活に臨んで初めて、面接官の印象を良くしそうな言辞を探そうとしても手遅れだ)。

人間には、誰にでも、得意な事と不得意な事がある。これを明確に認識して、得意なものをのばし、不得意なものを克服する事が必要だ。多くの日本人は、「完璧を求める集中力」や「約束事への誠実さ」という点で優れている。しかし、その一方で、「白紙の上に、自由に大きく、自分の構想を描く力」には欠ける事が多い。この事をいつも意識していると、人間としての幅と深さが同時に得られる事になるかもしれない。

最後に、私から国や社会に求めたい事もたくさんある。

第一には、国も社会も、もっと本気で「公正さ」を追求する事だ。雇用などにおいて「中高年の既得権を守り、若者達を使い捨てにする」事などは、どう考えても公正さに欠ける。それだけでなく、将来を担う若者達をこのように扱う事自体が、戦略的にも大きく間違っているとも言える。企業経営者や労働組合の幹部も、この事をもっと重く考えるべきだ。長い目で見れば、「公正さ」は必ず「競争力」につながるだろう。

第二に、企業経営者は、これ迄の人事政策を一変させて、もっとストレートに「合理性(合目的性)」に則ったものに変えていくべきだ。その方が、若者達の心にも直接響くだろう。「先輩の背中を見て学べ」という育て方は、正しい一面もあるが、「先輩」が外国人に後れをとっているような場合には、全く役に立たない。「英語力」や「ITを使いこなす力」が基本的に重要だと考えるのなら、その事をストレートに人事政策に反映させるべきだ。格好を付けている余裕はない。

最後に、大学教育のあり方だ。「旧態依然たる教授会」や「権威者」による支配に抜本的に』メスを入れ、学生の立場に立って何をどのように教えるべきかを深く考えていくべきだ。大学には「研究機関」という位置付けもあるのは事実だが、勿論「教育機関」でもあるのだから、この二つの機能を曖昧に渾然一体にせず、先ずは明確に切り分け、その上で有機的に結合させていくべきだ。そして、「教育」の目標としては、思い切って、「明日からでも海外の企業や研究機関で働ける人材を育成する」事を目標にすればどうだろうか?