「あの世」の世界観と民族性

2013年04月02日 00:55

新ローマ教皇就任のニュースのせいではないが、とりあえずお題のテーマで連想のなだれが始まってしまったので、ヨタ話を書きとめておく。(本当のインスピレーションの泉源のタネアカシは後述。)


キリスト教徒にとって、「あの世」のテーマは「お裁き」である。キリスト教徒にとって「この世の終わり」とは「裁きの日(Judgement Day)」のことである。

この「裁判オブセッション」ともいえる傾向は、「神の法」というコンセプトをその基盤にすえたユダヤ教に源を発する。モーゼが山ごもり中に神様から十戒を授かって以来、旧約聖書の世界において、宗教的指導者とは神に代わって神の法を執り行う「預言者」だ。

インディアナ・ジョーンズの第一作目をご覧になったことがあれば、あのスーパーマジカルなパワーを発揮するのが、神とイスラエルの民との間のお約束を収めた「契約の箱(Ark of Covenant)」であったことを思い起こしてくださるかもしれない。

こうした思想基盤と宗教的伝統に育まれた「あの世」の世界観が、「審判」というコンセプトを中心にしていることは、当然の帰結ともいえる。ようするに「死後の世界」とは究極の「お裁き」と、天国・地獄・煉獄といった「刑の執行」の場なわけだ。神の権威は、この「最後の審判者」としての存在意義の延長線上にあり、「裁く」ということ、またその裁きにもとづいた「正義をおこなう」という行為は神の特権なのだ。「Vengeance is mine(復讐するは我にあり)」とは、故今村昌平監督の映画の題名である前に、聖書の言葉である。

お前たちは知ろうとせず聞こうとしないのか/初めから告げられてはいなかったのか/理解していなかったのか、地の基の置かれた様を。
主は地を覆う大空の上にある御座に着かれる。地に住む者は虫けらに等しい。主は天をベールのように広げ、天幕のように張り/その上に御座を置かれる。
主は諸侯を無に等しいものとし/地を治める者をうつろなものとされる。
(旧約聖書イザヤ書40章21~23節)

和訳では「地を治める者」となっているが、英訳版では「裁判官(judges)」だ。

このイザヤ書の一文を印象的にフィーチャーしていたのが「炎のランナー(Chariots of Fire)」(1982年アカデミー賞最優秀作品賞受賞作品)。

こうした宗教的情景の下、ヨーロッパの政治・司法思想は、人知の限界を受容したイギリスの「同輩による審判」というコンセプトに基づく陪審員制度と、バークに代表される保守主義を生み出すと共に、この正反対に現世における司法権の行為者としての権力の泉源を宗教的正統性に求める大陸ヨーロッパ的な王権神授説と、その後継としてのリーガル・ポシティヴィズムに流れていったと言える。

ひるがえって中國人の「あの世」観は、「お役所」である。

中國人は死ぬとあの世でまず「冥官」とよばれる役人とやりあわなければならない。この「あの世の役人」のコンセプトが日本にはいってきて「えんま様」になったわけだ。

死んだら区役所の窓口のようなところにならんでいるという、この中國的「あの世」観。ふるっているのは、あの世にいったん足を踏み入れながら生還するという、つまり臨死体験をした人たちの存在を、中國的には「役所の手違いで呼ばれてしまった人」と説明しているところだ。ローマの教皇さまと違って、中國人はたとえあの世であっても「役所」が完全無欠であるなどとは、当然信じていないのである。

我思うに、中國の一般庶民が死生観をあれこれ論じ合うまでに民度があがってきたころには、皇帝陛下を頂点とした中國四千年の官僚システムがすでに「この世」のいかんともしがたい現実となっていたということだろう。中國人の根本的な強迫観念として「役人」という存在があるということだ。

そういえば、若い読者は知らないかもしれないが、往年の香港発のヒット・シリーズ「キョンシー」にでてくる幽霊たちのコスチュームは清朝の役人の正装である。

さて本邦である。日本人の「あの世」観は、上述の「えんま様」のように、古代以来連綿と輸入されてきた外国渡来の宗教や思想に影響されている。しかし臨死体験した人の「死後の世界」話では、圧倒的に「お花畑」を歩いていたということになっているらしい。

牽強付会かもしれないが、農耕民俗であり、ムラ社会の住人である日本人にとっての「あの世」とは、「うさぎ追いしかの山、こぶな釣りしかの川」といった故郷の里山の風景の世界のようだ。

道理で「農業」は聖域なわけである。

「~そのきさらぎの望月の頃」とは、日本人の原心情風景なのかもしれない。

もっとも都市集中と、核家族化がすすんだ現代の日本人でも「お花畑」の夢をみるのであろうか。個人的には、アンドロイドが電気羊の夢をみるように、大都市近郊のベッドタウンに育った高度経済成長以降の日本人は、小学校の運動会でお母さんが作ってくれたお弁当を食べる夢をみるような気がしている。

最後に、今回のエントリーの引き金となったのは、この本の中の一章、「あの世のみやげ話 『中國小説史考』前野直彬」を再読したことであったこと、言い添えておく。

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