憲法(2)「検察側の控訴権」と「被告の公正」をどう考える?

2013年05月09日 13:41

なにやら難しい標題ですが、これは死刑求刑事件に、裁判員裁判として無罪判決が出た「鹿児島高齢夫婦殺害事件」、それに少し解釈が広がりますが、陸山会事件にも関連する問題です。

憲法は、各国の文化、伝統、宗教などにより様々ですが、アメリカの影響を強く受けた日本憲法の適用の仕方は、街角から見る限りアメリカとはだいぶ違います。

日本人は刑事裁判の有罪率が99.8%に上る事を誇りとし、「だから、日本は安全なんだ」と思い勝ちですが、ナチスドイツ時代やスターリン時代のソ連より有罪率が高い事実を、そのまま受け容れて良いものでしょうか?


日本の検察は「確実に有罪にできる事件しか起訴しない」とか「被告側の権利を制限している」ために、この異常な数字が可能になると言う説がありますが、これが事実だとしたら、新憲法発布以来66年を経た今でも、帝国憲法時代と同様に、国民は司法の客体に過ぎず、主体は依然として司法当局だという事になります。

そして、このデータを見た多くの先進諸国の専門家からも、日本の司法の公正に対しての疑問の声が上がっている現実は無視できません。

ここで問題になるのが、「検察」と「被国人」との「公正な関係」の線引きです。

米国では、修正第五条で「同一の犯罪について、重ねて刑事上の責任は問われない」と定め、「刑事事件の一審判決で検察側が敗訴した際は、控訴出来ない」と言う原則が確立しています。

これが米国の考える「一事不再理」です。

それに加えて、「捜査権、逮捕権,拘留権などの強大な公権力に加え、無尽蔵に近い資力と人力を持つ検察側が、一審で犯罪事実を証明出来なかった場合、それ以上被告人を苦しめるべきではない」と言う「公正原則」の重視があります。

こう申し上げると「検察の控訴で有罪になった事件も沢山ある。そのお陰で日本の犯罪は少ないのだ」と言う反論が出ると思いますが、ご自身が「検察の冤罪」の被害者になった場合でも、同じ主張をされるでしょうか?

私は、一過性の「事件」の真相を探る為に、普遍的な価値を持つ「一事不再理」や「公正の原則」を犠牲にする事は危険な思想だと思っています。

特に「人が人を裁く」司法は、結果重視の拙速は絶対に避けるべきです。

米国で1994年に起きた、アメリカン・フットボールの不世出の名選手と言われたOJシンプソンが、元妻を殺した容疑で裁かれた事件は、髭のランス・イトー判事が法廷の指揮を執り無罪判決を下した経過は、一部始終がTVで放映されましたので、今でもご記憶の方は多いと思います。

この時の米国世論は「誤判説」が圧倒的でしたが、検察側の控訴が「一事不再理」で禁止されているため、この判決はそのまま確定しました。

それでも、「修正第五条」の改正(米国では修正)を要求する意見は皆無でした。

それは、米国民が憲法にうといのでも、無関心の為でもなく、「自分達が憲法に守られている」ことを実感出来る社会に住んでいるからです。それ程、アメリカ憲法と国民の関係は近いのです。

一方、日本の最高裁は「一審から最高裁まで、連続しているから検察が一審敗訴で控訴しても一事不再理に反しない」と言う判断を下しました。その理由の説明は見つかりませんでした。

「一審判決」が途中経過に過ぎないとしますと、全ての判決が最高裁の判断が出るまで確定しない事になり、なんとも不思議です。

前の原稿で「現行憲法が『機能』しない理由に、『法律』への丸投げと『丸投げ先』の裁判官のレベルの低さによる判断間違いがあります」と書きましたが、これなどはその典型です。

米国の司法は、国民の憲法理解を深める為に色々工夫していますが、日本の司法は、そのエース中のエースであった田中耕太郎元最高裁長官が、一般世論を「雑音」と評した位ですから、解り難い理屈をこねて国民が法律に興味を持たない様に努力しているのが現実です。

英米法に詳しい高野隆弁護士は、日本国憲法の草案についてGHQとの折衝を担当した入江俊郎氏(日本国憲法の立案責任者で、その後最高裁判事就任)や佐藤達夫元法制局長ですら「一事不再理」 の意味を知らなかったと言うエピソードを披露されています。

このエピソードは、当時の日本の憲法の最高権威者が「基本的人権」や「立憲主義」に全く興味を持っていなかった事を物語っています。

恐ろしい事は、法的規範の無視が当たり前の、数々の検察不祥事が発覚し、今でも検察は「基本的人権」や「立憲主義」には無頓着だと言う事実が判明した事です。

ある素人向けの本に「英米法では立証責任を出来るだけ紛争当事者に任せ、裁判所はそれらの主張が憲法の示す規範の範囲である事と法律に定められた手続きが守られている事を確認しながら、その妥当性を判断するのに対し、日本では、内部の議論を重視して裁定する大陸法的な傾向が強い」と言う主旨の解説がありました。

だとすれば、日本の司法は立憲主義と言う正装はしていても、良く見ると「羽織袴にエナメルの靴」と言うちぐはぐな姿で、何とも体をなしません。

この様な跛行状態を正すには、憲法の全面的な改正と司法の抜本改革は避けて通れません。

私は日本のリベラル派の言う「国民主権」とか「基本的人権」の意味には反対ですが、憲法には米国の修正十条の様な国民の権利を保護する「人権条項」は絶対に必要だと思っています。

その意味で、憲法改正論議には「検察側の控訴権」と「被告の公正」の線引きも重要だと考え、本件を取り上げてみた次第です。

2013年5月9日
北村 隆司

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